【8月6日 Xinhua News】中国安徽省(Anhui)馬鞍山市(Maanshan)で1987年に開館した「三国朱然家族墓地博物館」は、三国時代の呉の武将、朱然(Zhu Ran)とその家族の墓を中心に、出土品や漢代と三国時代の文化を展示している。

 朱然は後漢の光和5(182)年に生まれ、呉の赤烏12(249)年に没した。主君の孫権(Sun Quan)とは同年齢で、年少時は共に学び、武芸に励んだとされる。曹操(Cao Cao)の南進を防いで功を立て、30歳で偏将軍に任命された。関羽(Guan Yu)を生け捕りにするなど武芸に秀でた三国の名将として知られる。

 朱然墓は、墓室を磚(せん)と呼ばれるれんがで築いた磚室墓で、墓室の入り口は南を向いている。全長は8・7メートル、高さは最も高い場所で3メートル近くあり、墓道と封門墻(ふうもんしょう)、甬道(ようどう)、前室、短い通路、後室からなる。ドーム型の天井部分には多種多様な装飾文様や図案が施された磚が用いられているが、それ以外の部分では規格が統一された銘文入りの磚が使われている。銘文は「富且貴、至万世」「富貴万世」と縁起の良い言葉が篆書(てんしょ)で刻まれていた。これらの磚は墓全体の8割を占めており、同時代の墓でもあまり例を見ないという。

 同博物館社会サービス部の単珊(Shan Shan)主任によると、朱然墓と家族墓からは漆木器や磁器、陶器、銅器など170点(組)余りの遺物と銅銭6千枚余りが出土した。珍しい出土品の一つに漆塗りの木の履物がある。木の板に鼻緒を付けた履物はこれまで日本が起源とされてきたが、今回の発見で中国から伝わったことが説明できるという。

 墓からは朱然の名刺も出土した。幅の狭いものは「木刺(もくし、名刺木簡とも)」、広いものは「木謁(もくえつ、名謁木牘とも)」と呼ばれる。単氏は「これまで発掘した墓地では木刺の出土が多く、木謁は少なかったが、朱然墓からは木謁3枚が出土した」と説明。木謁の表面には姓名、字(あざな)、出生地、あいさつ文、官職などが記されており、被葬者を特定する上で重要な根拠になった。

 同墓から出土した漆器80点余りには、日常生活を題材にしたもののほか、「季札挂剣図」「百里奚会故妻図」「伯楡悲親図」など礼儀と道徳に関する逸話を描いたものもあった。漆器に描かれた彩色画は、簡潔で巧みな線画と華麗で豊かな芸術表現で注目を集めている。三国時代の美術の空白を埋める発見でもあり、同墓は1980年代初期の中国十大考古学成果の一つとされている。(c)Xinhua News/AFPBB News