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【AFP記者コラム】九死に一生を得た元記者、仏トラック突入事件

2016年7月28日 8:57 発信地:ニース/フランス

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【AFP記者コラム】九死に一生を得た元記者、仏トラック突入事件
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(c)AFP/Anne-Christine Poujoulat

【7月28日 AFP】一生頭から離れないだろうと思う二つのイメージがある。一つは、巨大な白いトラックが人波を蹴散らし、ガチャガチャと金属片がぶつかる音を響かせながら自分たちの方へ突進してくるイメージ。

 もう一つは、大人3~4人とベビーカーに乗った幼児、さらに5歳前後の子の一家のイメージだ。母親は歩行の妨げになる5歳児にいら立っていた。私と妻のシルビー(Sylvie)は、フランス南部ニース(Nice)で革命記念日(Bastille Day)の花火見物を終え、ビーチから続く階段を上がっていた。階段の一番上にいたのがこの家族だった。

 私は1982年、レバノンの首都ベイルート(Beirut)から、イスラエルによる同市爆撃を伝えた。2001年9月、米ニューヨーク(New York)の世界貿易センター(World Trade Center)のツインタワーが崩壊した時には、私はわずか8ブロック先にいた。だが何十年にも及ぶ私のジャーナリスト人生で、今回のニースのような状況に陥ったのは初めてだった。

 日中は暑く晴れていたが、夕方にはアルプス(Alps)山脈から暗雲が街の方へ下りてきて徐々に空を覆い、海上へと広がっていった。私はシルビーに、この空模様が花火にドラマチックな演出を加えるだろうねと言った。花火は、岸から300メートルほど沖合に停泊させた6隻のボートから打ち上げられることになっていた。

 大きなアーチを描く天使の湾(Bay of Angels)沿いには、美しい遊歩道「プロムナード・デザングレ(Promenade des Anglais)」が、ニースの旧市街から西へ約8キロ続いている。

 午後10時きっかりにこの道の中央一帯の照明が消されると、周囲から一斉に期待のため息が上がった。砂利のビーチに座る人や立つ人、また私たちの後ろ、ビーチより高い場所にある遊歩道の鉄製の手すりの前にあるベンチにも、何千という人が集まっていた。

 

トラック突入の数時間前、ニースに接近していた嵐。(c)AFP/Valery Hache

 

 そこから2車線の道路とヤシの木の長い分離帯を挟んだ後方には、ハイアット・リージェンシー(Hyatt Regency)やウエストミンスター(Westminster)、老舗のネグレスコ(Negresco)といった高級ホテルが立ち並んでいる。その窓という窓に、観光客の姿があった。

 

(c)AFP/Valery Hache

 

 ニースは、フランスで首都パリ(Paris)に次ぐ第2の観光都市だ。花火が始まった時、周囲ではさまざまな言語でのおしゃべりが聞こえた。シューシューという音、火花、色彩が徐々に強まっていき、25分後、フランス人が「最後のブーケ」と呼ぶ金の炎のカーテンが地中海(Mediterranean)の暗い水面に広がった。見物客らは拍手すると、プロムナードに沿ってゆっくりと移動し始めた。 

 そこから約2キロ西方にいたトラックの運転手は、この最後のブーケを合図にエンジンをかけたのだろう。トラックはプロムナードの縁石を乗り越え、無防備に休暇を楽しんでいた人々に向かって突っ込み始めた。

 階段の一番上に差し掛かった辺りで雨粒を感じた私たちは、早く娘のアパートへ戻れるよう、皆を追い越していこうと話し合った。

 私たちの前に、カリブ系と思われる家族がいた。母親は幼い息子に対し、「ベビーカーの前を歩かないでよ、何度もしつこいわね」と叱った。

 私たちは彼らの脇を擦り抜け、人波を編むようにして先を急いだ。まだビーチやベンチに座っている人もいた。屋台でローストナッツを売る男性、蛍光色のヘッドバンドや夜光棒をバケツに入れ、売り歩く女性もいた。

 シルビーと私は足早に移動した。われわれの前を行く人は徐々に少なくなったとはいえ、まだ何百人もいた。その時には、プロムナードから一筋先の通りにある娘のアパートまで、後5分という場所まで来ていた。

 突然50メートルほど離れたところで、トラックがどこからともなく人々の頭上を襲うかのように爆走してきた。ヘッドライトが燃えていた。プロムナードの片側から反対側へとジグザグ運転していた。腰掛けや駐輪場、ビーチのすぐ上のガードレールにぶつかるたびに、激しく耳障りな金属音が聞こえた。

 

突入翌朝のトラック。(c)AFP/Boris Horvat

 

「シルビー!」「ロバート!」と大声で叫び合い、遊歩道の右側を走る車線へと転がるように逃げ出した3秒後に、トラックがごう音を立てて通り過ぎて行った。壊れたガラスやプラスチックの破片が大量に降り掛かり、私は左手をかざして顔を守った。

 恐怖に震えながら、私たちは互いを支え合うようにして車道の反対側を目指した。通行している車にぶつからないよう注意しながら、ヤシの木の間を抜けてもう1車線も越え、歩道へたどり着いた。

 真っ先に娘に電話した。彼女は市内の別の場所でパーティーに参加していた。その場から動かないようにと伝えた。

 周りの人々は皆、叫び、走っていた。パトカーのサイレンが鳴り始めた。私たちは走らず、できるだけ速く歩いた。安全な場所を求め、娘のアパートへと向かった。

 

突入現場の救助隊員たち。(c)AFP/Valery Hache

 

 私はAFPに電話した。編集デスクから、立場をわきまえた、実務的な質問を受けた。トラックの運転手が、例えば心臓発作を起こしていたなど、車を制御不能な状態に陥っていたわけではないと断言できるか? いや100%とは言えない、ただトラックは非常に大きく、故意でなければプロムナードに入れるはずがない。しかもあそこまでスピードを出していたのだから、運転手に殺人の意図があったのは間違いない。速度は? 時速80キロぐらいだったと思う。

 人にぶつかるのを見たか? 夜の闇からトラックが突っ込んできた瞬間、人々が右へ左へと投げ出されるのをこの目で見た。私たちのようにジャンプして身をかわす隙があった人もいたと思うが、追突された人も確実にいた。トラックの通過後、後ろを振り返ったシルビーは、血だまりの中に倒れて動かない遺体を目にした。私はデスクに答えた。はい、人々がひかれるのを目撃しました、と。

 記者には、何事も一歩引いて見るような感覚が求められる。事実を、詳細を冷静かつ明瞭に把握するためだ。しかし今回のような状況に直面したのは初めてだった。

 私はレバノン内戦時に、3年間現地で暮らした。時には銃弾から身を守らなければならないこともあった。ただ、1982年6月にイスラエル軍がベイルートを包囲し爆撃したその時でさえ、自分が標的にされていると感じたことはなかった。

 2001年9月11日、世界貿易センターのツインタワーが崩壊した際、私はわずか8ブロック先にいた。私は今でいう「グラウンド・ゼロ(Ground Zero)」付近で2時間にわたり、生存者や救助隊員、警察官らを取材してメモを取り、暇を見つけては首都ワシントン(Washington D.C.)のAFPに電話して情報を上げた。

 それでも、誰かに自分の命を狙われたと実感したのはニースが初めてだった。もちろん私だけではない、妻も、一緒に花火見物に興じた何千人もの人々が狙われた。私の娘のような若者も、高齢者も、ベビーカーに幼い子を乗せた家族連れも。

 私は自分が見た光景を伝え、編集デスクの質問にはできるだけ正直に答えた。だが翌日遅くプロムナードに戻った時、私はあまりに動揺していて、前夜どの地点で身を翻してトラックをかわしたかのか、はっきりと思い出せなかった。

 

トラック突入の犠牲者たちを追悼するため集まった人々。(c)AFP/Anne-christine Poujoulat

 

 AFPに連絡を入れて数時間後、同じ編集者から電話があり、記者名に私の名前を使ってもよいかという問い合わせを受けた(私は3か月ほど前に定年退職していた)。私が提供した情報量は少なく、大した役にも立たないだろうが、そうしたいのなら私の方は構わないと了承した。AFPでは、署名付きの配信記事の方が好まれるのだ。

 翌日、私は英国放送協会(BBC)の系列2局、米紙ニューヨーク・タイムズ(New York Times)、英情報誌「モノクル(Monocle)」電子版の電話インタビューに応じた。米紙ウォールストリート・ジャーナル(WSJ)と英紙デーリー・テレグラフ(Daily Telegraph)からの取材も受けた。

 事件について繰り返し語ることが、自分の身に起きたことと折り合いをつける一助になった(心的外傷後ストレス障害(PTSD)の専門家の中には、記者が仕事を続けられる理由はまさにそこにあるという人もいる)。

 私の語り口は落ち着きを増していった。BBCでのインタビューでは、私の「ジャーナリストとしての目」を褒めてもらった。「信じられないほど明晰(めいせき)」と言ってくれた人もいた。友人らは、仏紙ルモンド(Le Monde)やノールの声(La Voix du Nord)にも引用されていたとテキストメッセージで知らせてくれた。自分が迅速に、可能な限り誠実に対応できたことに、私はプロとして一定の満足感を得た。

 

突入現場に散らばる遺留品。(c)AFP/Anne-christine Poujoulat

 

 ただ記事の署名については気掛かりだった。自分がこの記事の中心に据えられてしまう気がしたからだ。この上なく幸運なことに、私は生き延びることができた。だがこれは私の物語ではない。これはあの襲撃の最中とその直後に亡くなった84人と、4日たっても身元が判明していない40人近い人々の物語だ。そして、ベビーカーを押し、その前を歩いては邪魔していた子ども連れの家族の物語だ。彼らの中に死傷者はいただろうかと思い出さずにはいられない。そこに彼らの署名はない。(c)AFP/Robert Holloway

 

(c)AFP/Frederick Florin

 

このコラムは、ロバート・ホロウェイ(Robert Holloway)元AFP記者が執筆し、2016年7月18日に配信された英文記事を日本語に翻訳したものです。

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