<インタビュー>ミシェル・ゴンドリー監督が語る、映画『ムード・インディゴ~うたかたの日々~』
【8月5日 MODE PRESS WATCH】10月5日からロードショースタートとなるミシェル・ゴンドリー(Michel Gondry)監督最新作『ムード・インディゴ~うたかたの日々~(Mood Indigo、原題:L'Écume des jours)』。本作についてミシェル監督がその想いを語った。
■インタビュー:ミシェル・ゴンドリー(映画監督)
──原作を最初に読んだのは、いつですか。
10代の頃だね。兄が最初に読んで、僕たち弟に薦めたんだ。間違いなく兄は「墓に唾をかけろ」とか、ボリス・ヴィアンがヴァーノン・サリバン名義で書いた、もっとエロティックな小説から読み始めたはずだね。わが家では、ヴィアンの歌を聴くことはなかった。メッセージ色の強いフランスの歌に対して、ある種の抵抗感があったからね。デューク・エリントンは、父が大ファンだったから聴いていたよ。それから、セルジュ・ゲンズブールもね。当時は思いもしなかったけれど、ヴィアンはある意味、彼ら二人をつなぐ存在だったんだと思う。最初に読んだ時には気付かなかった。現実の記憶と、あとから再構築した記憶には違いがあるからね。
読み終わって、スケート・リンクの惨劇が映像になって頭に残った。最愛の人が失われてしまうという、恋愛小説の伝統を受け継いでいるという印象も強かったね。それらのイメージが、僕が監督になる遥か前に思いついた、色彩が徐々にあせてゆき、白黒へと移ろっていくという映画のヴィジョンと重なるようになった。その後、原作を2、3回読み返して、映画化しようと考えた。
──映画はパリが舞台ですが、時代設定はいつですか。
いつの時代でもないんだ。原作が出版された1946年でもなく、2013年でもない。1970年代を想起させるのは、ステファン・ローゼンボームと僕が同い年で、自分たちの若い頃を思い起こさせる物を選んだからだ。視覚的に選んだ物の多くは僕の子供時代と関連があり、たとえばコランのアパルトマンがそうだ。子供の頃に祖母と毎週パリへ出かけ、プランタン百貨店に行った。建物の連なるあの連絡通路を歩くのは、本当に魔法のようだった。レ・アール地区には建設現場があり、僕は建設中の街で育った。それこそが、僕の若き日のパリだ。そのイメージと、ヴィアンがアメリカ文化のファンだったという事実を結びつけた。
原作はロマンティックで、10代の少し病的な空想を反映している。それは疑いもなく僕自身の感性や記憶、そして幻想としっくり来るものだ。僕はよく、両親の家でまた暮らすようになるという夢を見るが、その夢の中で家は縮んでいる。あるいは、ガレージが建てられたり、木が成長したり、周りの街並みが変わったのかもしれない。コランのアパルトマンが朽ちて縮むのは、そこから来ている。 僕は、同じ場所の過去と現在の差違にこだわっている。時の経過を証明する、壁紙の重なっている層が見たいんだ。
──ロマン・デュリスは、どういう経緯でコラン役に?
原作では、コランはあまりしっかりと描写されていない。読者が自分自身を物語に投影できるので、そこが気に入っている。ロマン・デュリスがいいと思ったのは、男っぽい側面とある種の脆さを併せ持っているからだ。そのうち崩れるんじゃないかと思わせてくれる。原作ではコランはもっとこの世のものではない感じだけれど、それでは時代遅れになってしまう。またちょっとドレスアップ気味で、ほぼメトロセクシャルで、そういう点は削らなければならなかった。
撮影初日の埋葬シーンから、ロマンの演技には強い印象を受けた。ねじ曲がったライフルで睡蓮を撃つんだけれど、簡単じゃない。時に俳優の才能というのは、偉大な脚本をいかに鮮やかに解釈するか、いかにすごい感情表現をこなすかではなく、ただ単純な物事をいかにうまく信じさせてくれるかで測られたりする。本作では、彼が愛する人を殺したのは水に浮く花々なんだと、観客に信じさせなければならなかった。
映画の後半では、コランは自分の仕事とクロエの病気のせいで疲れきっていて、しかもみんなが彼に怒鳴っている。それは僕が感情移入できる部分だったので、原作より激しくした。かつて僕は、重病を患う妻と一緒に暮らしていた。幸い妻は回復したので、幸運にも健康だからこそ感じる恥ずかしさを知っている。ロマンは僕の体験を利用して、コランという人物を、逃げや臆病も含めて、特に誉れ高くもない場所へと連れて行った。
──オドレイ・トトゥはクロエ役としてはとても躍動的ですね。
僕は、オドレイを非常に気に入っている。他の作品の生命力に溢れた演技も好きだが、本作で病身でありながら躍動感を出せるところがいい。彼女は、クロエには欠かせない、あるエネルギーを持っている。クロエはみんなを元気づけるための強さを見つけなければならず、そうするとみんなもお返しに彼女を元気づけてくれる。オドレイが映ると、誰だってスターの登場だとわかる。彼女の顔には清らかさがあり、ローレン・バコールのような黄金時代の女優たちを彷彿とさせる。また彼女には、ある感性が備わっていて、たとえばチャップリン映画の女性たちのような無声映画のスターを思い起こさせる。実際、後半は無声映画の雰囲気が幾分かあって、セットは俳優たちの顔に取って代わるんだ。映像はとても強烈でパワフルなものになるはずだったので、僕たちは観客が感情移入できる力強い俳優たちを必要とした。
──ニコラ役のオマール・シーはどうでしたか。
誰だってオマールと仕事がしたい。彼はとってもイカした男で、シーンを締めくくるさりげない目つきや表情さえ、間合いが完璧なんだ。たとえば彼が解雇されるときや、アリーズが死んだと分かったときだ。彼はニコラのスノッブな部分や、いささかいらつかせる舞台俳優のような洗練された身のこなしも取っ払った。そして驚くほど感動的な人間味を役柄に与え、この物語の守護天使にまで高めた。
──あなたの友人であるエティエンヌ・シャリーが音楽を書いたのですね。
セヴールの美術学校で一緒だった頃に、エティエンヌが自分でギターを弾いて、録音したテープを聞かせてくれたときから、その曲のオーケストラ・バージョンが頭にあった。彼は学生寮に住んでいたので、僕らは“学生寮の音楽”と呼んでいて、のちにそれが“ウイウイ”というグループになった。ユニークな音楽を生み出す彼のやり方が好きだ。
他にアメリカのソングライター、ミア・ドイ・トッドの歌も流れる。そしてデューク・エリントンの役で、ココナッツ抜きの元キッド・クレオールことオーガスト・ダーネルも登場する。もちろん、「クロエ」や「A列車で行こう」も流れるよ。(c)MODE PRESS
■インタビュー:ミシェル・ゴンドリー(映画監督)
──原作を最初に読んだのは、いつですか。
10代の頃だね。兄が最初に読んで、僕たち弟に薦めたんだ。間違いなく兄は「墓に唾をかけろ」とか、ボリス・ヴィアンがヴァーノン・サリバン名義で書いた、もっとエロティックな小説から読み始めたはずだね。わが家では、ヴィアンの歌を聴くことはなかった。メッセージ色の強いフランスの歌に対して、ある種の抵抗感があったからね。デューク・エリントンは、父が大ファンだったから聴いていたよ。それから、セルジュ・ゲンズブールもね。当時は思いもしなかったけれど、ヴィアンはある意味、彼ら二人をつなぐ存在だったんだと思う。最初に読んだ時には気付かなかった。現実の記憶と、あとから再構築した記憶には違いがあるからね。
読み終わって、スケート・リンクの惨劇が映像になって頭に残った。最愛の人が失われてしまうという、恋愛小説の伝統を受け継いでいるという印象も強かったね。それらのイメージが、僕が監督になる遥か前に思いついた、色彩が徐々にあせてゆき、白黒へと移ろっていくという映画のヴィジョンと重なるようになった。その後、原作を2、3回読み返して、映画化しようと考えた。
──映画はパリが舞台ですが、時代設定はいつですか。
いつの時代でもないんだ。原作が出版された1946年でもなく、2013年でもない。1970年代を想起させるのは、ステファン・ローゼンボームと僕が同い年で、自分たちの若い頃を思い起こさせる物を選んだからだ。視覚的に選んだ物の多くは僕の子供時代と関連があり、たとえばコランのアパルトマンがそうだ。子供の頃に祖母と毎週パリへ出かけ、プランタン百貨店に行った。建物の連なるあの連絡通路を歩くのは、本当に魔法のようだった。レ・アール地区には建設現場があり、僕は建設中の街で育った。それこそが、僕の若き日のパリだ。そのイメージと、ヴィアンがアメリカ文化のファンだったという事実を結びつけた。
原作はロマンティックで、10代の少し病的な空想を反映している。それは疑いもなく僕自身の感性や記憶、そして幻想としっくり来るものだ。僕はよく、両親の家でまた暮らすようになるという夢を見るが、その夢の中で家は縮んでいる。あるいは、ガレージが建てられたり、木が成長したり、周りの街並みが変わったのかもしれない。コランのアパルトマンが朽ちて縮むのは、そこから来ている。 僕は、同じ場所の過去と現在の差違にこだわっている。時の経過を証明する、壁紙の重なっている層が見たいんだ。
──ロマン・デュリスは、どういう経緯でコラン役に?
原作では、コランはあまりしっかりと描写されていない。読者が自分自身を物語に投影できるので、そこが気に入っている。ロマン・デュリスがいいと思ったのは、男っぽい側面とある種の脆さを併せ持っているからだ。そのうち崩れるんじゃないかと思わせてくれる。原作ではコランはもっとこの世のものではない感じだけれど、それでは時代遅れになってしまう。またちょっとドレスアップ気味で、ほぼメトロセクシャルで、そういう点は削らなければならなかった。
撮影初日の埋葬シーンから、ロマンの演技には強い印象を受けた。ねじ曲がったライフルで睡蓮を撃つんだけれど、簡単じゃない。時に俳優の才能というのは、偉大な脚本をいかに鮮やかに解釈するか、いかにすごい感情表現をこなすかではなく、ただ単純な物事をいかにうまく信じさせてくれるかで測られたりする。本作では、彼が愛する人を殺したのは水に浮く花々なんだと、観客に信じさせなければならなかった。
映画の後半では、コランは自分の仕事とクロエの病気のせいで疲れきっていて、しかもみんなが彼に怒鳴っている。それは僕が感情移入できる部分だったので、原作より激しくした。かつて僕は、重病を患う妻と一緒に暮らしていた。幸い妻は回復したので、幸運にも健康だからこそ感じる恥ずかしさを知っている。ロマンは僕の体験を利用して、コランという人物を、逃げや臆病も含めて、特に誉れ高くもない場所へと連れて行った。
──オドレイ・トトゥはクロエ役としてはとても躍動的ですね。
僕は、オドレイを非常に気に入っている。他の作品の生命力に溢れた演技も好きだが、本作で病身でありながら躍動感を出せるところがいい。彼女は、クロエには欠かせない、あるエネルギーを持っている。クロエはみんなを元気づけるための強さを見つけなければならず、そうするとみんなもお返しに彼女を元気づけてくれる。オドレイが映ると、誰だってスターの登場だとわかる。彼女の顔には清らかさがあり、ローレン・バコールのような黄金時代の女優たちを彷彿とさせる。また彼女には、ある感性が備わっていて、たとえばチャップリン映画の女性たちのような無声映画のスターを思い起こさせる。実際、後半は無声映画の雰囲気が幾分かあって、セットは俳優たちの顔に取って代わるんだ。映像はとても強烈でパワフルなものになるはずだったので、僕たちは観客が感情移入できる力強い俳優たちを必要とした。
──ニコラ役のオマール・シーはどうでしたか。
誰だってオマールと仕事がしたい。彼はとってもイカした男で、シーンを締めくくるさりげない目つきや表情さえ、間合いが完璧なんだ。たとえば彼が解雇されるときや、アリーズが死んだと分かったときだ。彼はニコラのスノッブな部分や、いささかいらつかせる舞台俳優のような洗練された身のこなしも取っ払った。そして驚くほど感動的な人間味を役柄に与え、この物語の守護天使にまで高めた。
──あなたの友人であるエティエンヌ・シャリーが音楽を書いたのですね。
セヴールの美術学校で一緒だった頃に、エティエンヌが自分でギターを弾いて、録音したテープを聞かせてくれたときから、その曲のオーケストラ・バージョンが頭にあった。彼は学生寮に住んでいたので、僕らは“学生寮の音楽”と呼んでいて、のちにそれが“ウイウイ”というグループになった。ユニークな音楽を生み出す彼のやり方が好きだ。
他にアメリカのソングライター、ミア・ドイ・トッドの歌も流れる。そしてデューク・エリントンの役で、ココナッツ抜きの元キッド・クレオールことオーガスト・ダーネルも登場する。もちろん、「クロエ」や「A列車で行こう」も流れるよ。(c)MODE PRESS









