【5月14日 AFP】15日から26日まで開催されるカンヌ国際映画祭(Cannes Film Festival)にまつわるさまざまなエピソードを振り返ってみよう。

■「本番用意…ストップ!」

 第1回カンヌ国際映画祭は1939年9月1日、「映画の父」と呼ばれるリュミエール兄弟の弟、ルイ・リュミエール(Louis Lumiere)に率いられ開幕した。当時流行だったアールデコ調のポスターが手配され、仏南部のリゾート、リビエラ(Riviera)にあったカジノの一つが開催を受け入れ、『オズの魔法使い(The Wizard of Oz)』など仏内外の名作が上映を待つばかりだった。しかし、この日は運命の日だった。同日、第2次世界大戦が開戦。映画祭は48時間もたたないうちに中止に追い込まれ、上映された作品はハリウッド映画『ノートルダムのせむし男(The Hunchback of Notre Dame)』の1本だけだった。

 改めて第1回カンヌ国際映画祭が行われたのは戦後の1946年9月で、英映画監督デービッド・リーン(David Lean)の『逢いびき(Brief Encounter)』などが上映された。

■才能の発掘

 カンヌ国際映画祭は新人監督の発掘の場ともなっている。例えば仏映画運動「ヌーベルバーグ(New Wave)」の巨匠フランソワ・トリュフォー(Francois Truffaut)監督が自身の自伝的作品『大人は判ってくれない(原題:Les Quatre Cents Coups、英題:The 400 Blows)』で最高賞パルムドール(Palme d'Or)を持ち帰ったのはわずか28歳のときだった。またジョージ・ルーカス(George Lucas)、ケン・ローチ(Ken Loach)、スティーヴン・ソダーバーグ(Steven Soderbergh)、クエンティン・タランティーノ(Quentin Tarantin)の各監督は全員、初めて手がけた長編作品をカンヌ国際映画祭に出品している。

■論争

 カンヌ国際映画祭では、空になったシャンパン・ボトルのみならず、論争もつきものだ。冷戦下の1950年代には、植民地主義やナチスの強制収容所を題材とした物議を醸す映画が、平和外交を維持するためとして急遽上映中止となることもあった。1968年には、旧ソ連のプラハ侵攻によってチェコ出身の映画監督が帰国できなった他、パリ(Paris)で学生の抗議から五月革命が勃発。問題視された上映を中止させようとしたトリュフォーやジャン・リュック・ゴダール(Jean-Luc Godard)らが舞台のカーテンにしがみつき、映画祭は予定より5日早く閉幕した。

■色々なパルムドール

 1955年に創設された最高賞パルムドールは、さまざまな非公式の「派生賞」を生んでいる。例えば、最も素晴らしい演技をした犬に贈られる「パルム・ドッグ(Palm Dog)」。あるいは同性愛者やジェンダーをテーマにした映画の最優秀作品賞「クィア・パルム(Queer Palm)」。さらにフランスのある雑誌が主催するポルノ映画の最高賞「ホット・ドール(Hot d'Or)」賞もある。

■上映後のブーイングは成功の兆し?

 カンヌ国際映画祭では、上映時にその作品がどう観客に受け止められるかがメディアの注目の的になってきた。映画への情熱ゆえのやじは当たり前。カンヌでブーイングを受けることは監督にとっては悪夢だろうが、ブーイングされた映画がお先真っ暗というわけではない。ミケランジェロ・アントニオーニ(Michelangelo Antonioni)監督の『情事(L'Avventura)』(1960年)、トリュフォー監督の『柔らかい肌(La Peau Douce)』(1964)、ロベール・ブレッソン(Robert Bresson)監督の『ラルジャン(L'Argent)』(1983)などは最初の上映時にこき下ろされたが、後に傑作とみなされている。(c)AFP