【8月12日 AFP】13日に84歳の誕生日を迎えるキューバのフィデル・カストロ(Fidel Castro)前国家評議会議長(83)が、5日にインターネット上で一部が発表された回顧録『La victoria estrategica』(戦略的勝利、の意)で、革命家としての自らの基礎を築いた幼少から青年時代を振り返っている。

「わたしは生まれつきの政治家だったわけではないが、幼い頃から心に焼きつく出来事を見聞きし、それが世界の現実を知るために役だった」--06年に腸の手術を受け、弟のラウル・カストロ(Raul Castro)現国家評議会議長(79)に後継を託したカストロ氏だが、最近になって公の場に姿を見せる機会が増えている。キューバ共産党の機関紙やウェブサイトでも定期的な執筆を精力的に続けている。

 回顧録の正式な出版日程は未定だが、そのひとつの章には、カストロ氏は故郷のキューバ南部ビラン(Biran)での幼少時代からイエズス会(Jesuits)系のカトリック学校での日々、法律を学んだハバナ大学(Havana University)で本格的に政治運動にのめり込んでいった様子などが記されている。

■最初の「抵抗」は学校の教師に向かって

 カストロ前議長が、最初の反抗として「自覚して」いるのは11歳のときに、クラス内で彼を叩いた教師に対し、バターのついたパンを投げ返したときだった。「顔に向けて一直線だった。それから手と足を振り回して彼に突っかかった。全校生徒の前だった・・・強圧的で乱暴だったこの教師の信用は地に落ちた。この出来事は学校の語りぐさになった。」
 
 また当時のフランクリン・D・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt)米大統領に「敬意に満ちた」手紙を送り、ハバナの米国大使館から受け取りのメッセージをもらったエピソードを紹介している。

 子ども時代のカストロ氏は作文が得意で、数学はさらに優れていた。運動はよくできて、その頃から銃が好きだったという。カストロ氏の回顧録で明らかに抜けているように見えるのが恋愛に関する話だ。唯一、大学のドア付近でいじめられ、中に入れなかった後に、浜辺でガールフレンドを前に泣いたことがつづられている。

■「英雄的行為を自分だけの手柄にできる者はいない」

 カストロ氏いわく、「帝国(米国)が国力を増しつつあったとき、本気で革命を思い描いていたわずかな人間たちの中に自分はいた。しかし、英雄的行為を自分だけの手柄にできる者はいない。それはさまざまな構想と出来事、多くの人の犠牲の上に成り立つものだった。そうした要素があってこそ、われわれは50年もの間、米国の攻撃と封鎖に耐えたキューバの完全独立と社会革命を勝ち取ることができた」
 
 現在も共産党第一書記として党の指導は続けているカストロ氏は、自分がゲリラの闘士になる上で影響があった出来事はどれも忘れられない思い出だと言う。「思い出すだけで本当に楽しい。わたしが人生でたどった道筋を決定づけた信念は、結局のところ、そのような出来事によって培われたのだから」

 またキューバ革命の転換期となったのは、300人のゲリラ兵でバティスタ政権(当時)の1万人の兵士を打ち負かしたシエラ・マエストラ(Sierra Maestra)での戦闘だったという。この「英雄的偉業」が回顧録前半の山場だとカストロ氏は述べている。同書には写真や地図、参考資料なども多数掲載される予定だ。1959年1月1日のハバナ凱旋は現在執筆中の後半に収録されるという。回顧録の抜粋はウェブサイト「Cubadebate.cu」に発表されている。(c)AFP/Isabel Sanchez