【6月14日 AFP】14日は、第2次世界大戦中のナチス・ドイツ占領下でアウシュビッツ(現ポーランド)の強制収容所へ収容者を連行する列車が初めて運行された日からちょうど70年目にあたる。今年、このアウシュビッツ行き列車が戦後初めて再現され、収容第1陣として送られたポーランド人ら生還者3人が乗り込む。

 犠牲者を悼む特別列車は、14日朝にポーランド南部のタルヌフ(Tarnow)を出発し、当時と同じ140キロのルートをたどって「死の収容所」として有名なアウシュビッツ・ビルケナウ(Auschwitz-Birkenau)強制収容所があったオシフィエンチム(Oswiecim)へ向かう。

 企画したのは収容所の犠牲者やその家族による団体「Association of Auschwitz Families(アウシュビッツ家族協会)」。列車には生存者3人が乗り込むほか、収容所跡で行われる記念式典にも6人が出席する。

 アウシュビッツ・ビルケナウ博物館によると、第2次大戦中、同強制収容所では計110万人に上る人たちが殺りくされた。うち100万人はナチスが占領した欧州各地やポーランド国内から送られてきたユダヤ人で、同収容所はナチスによる「ユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)」の永遠の象徴となっている。ユダヤ人以外では、非ユダヤ系のポーランド人7万5000人、ロマ人2万1000人、ソ連軍の捕虜1万5000人、被占領国のレジスタンス活動家など1万5000人が犠牲となった。

■アウシュビッツ行き第1陣は抵抗試みたポーランド人

 大戦勃発の引き金となった1939年のナチス・ドイツのポーランド侵攻から1年後、ナチスはポーランド陸軍の兵舎だったアウシュビッツに強制収容所を設営した。42年の春には、近隣のビルケナウにも収容所が開設された。45年の1月にソ連軍に開放されるまで、アウシュビッツ・ビルケナウ一帯はガス室で一斉にユダヤ人を殺害するなど、ナチスが「ユダヤ人問題の最終的解決」と呼んだ大量虐殺の拠点となった。

 だが、当初アウシュビッツはポーランドのエリート層や地下レジスタンス運動に加わる者たちの拘束、殺害を目的とした収容所だった。

 1940年6月14日、最初にアウシュビッツに送られた728人はタルヌフの刑務所に収監されていたポーランド人男性たちだった。その中にいたカジミエジュ・アルビン(Kazimierz Albin)さんは今回、再現列車に乗り込む1人だ。

 39年のポーランド侵攻の際、アルビンさんはまだ17歳だった。フランスへ逃れた亡命ポーランド人の抵抗組織に加わろうと40年、スロバキア国境を越えようとしてナチスに拘束された。アウシュビッツ行き列車の中で、パリもナチスに占領されたことを知り「足下から地面が崩れ落ちた思いだった」という。

 アウシュビッツに着いたポーランド人たちは「ドイツ人の敵」と宣言され、腕に囚人番号を入れ墨された。アルビンさんの腕には今も「118」の数字が残る。その後、さんざん拷問されてから強制労働を課され、新たに到着する被収容者のための施設を作らされた。このアウシュビッツへの第1陣のポーランド人のうち300人は戦後、生還したという。(c)AFP/Ursula Hyzy