【12月5日 AFP】1941年12月7日(日本時間8日)、日本軍が米ハワイ(Hawaii)の真珠湾(Pearl Harbor)にあった米海軍基地を攻撃した。当時のフランクリン・ルーズベルト(Franklin D. Roosevelt)米大統領は真珠湾攻撃が迫っているとの情報を受け取っていながら、わざと行動を起こさなかったと考えてきた人びとがいる。

 この説は、真珠湾攻撃を受ければそのショックによって、第2次世界大戦に参戦する必要性を米国民に納得させられるとルーズベルトが考えたというものだ。

 しかし、ハワイにあるパールハーバー・ナショナル・モニュメント(Pearl Harbor National Monument)の軍事史家、ダニエル・マルティネス(Daniel Martinez)氏は「それは伝説だ」と言う。「本を書いて儲けるために作り出された陰謀論の類だ」

 ルーズベルトは米国民に開戦の必要性を理解させようとしていたのは事実だが、真珠湾攻撃の前に彼が注意を向けていたのは太平洋地域ではなく、ナチス・ドイツに占領された欧州だった。「彼はドイツとの戦争が起こることを望んでいた。二正面戦争は彼が最もしたくなかったことだ」とマルティネス氏は語る。米国人は忘れがちだが1941年当時の米国は、今日の軍事大国の立場からはほど遠かった。「陸軍も海軍も小さく、空軍は非常に小さかった」

 真珠湾攻撃に先立ち、ルーズベルトは日本との軍事衝突を回避しようとする中で、昭和天皇にあらためて書簡を送ったとマルティネス氏は言う。日米開戦が差し迫っていることを米国の情報当局がつかんでいたとしても、最初の標的がハワイの海軍基地になることを示す情報はなかったと同氏は語る。当時、米国人の多くは、日本軍が攻撃を始めるとすれば、その最初の標的はフィリピンの米軍基地になるだろうと考えていた。

 米軍はレーダーを持っていたが、真珠湾から350キロ沖に計400機の航空機を積んで停泊していた日本の空母6隻の接近を探知できなかった。「米軍の監視体制はお粗末だった」とマルティネス氏は解説する。「日本軍がそんなことをできるわけがないという気分が漂っていた。われわれは日本は軍事的に劣っていると思っていたし、人種的にも日本を見下していた」

 真珠湾攻撃による米国人犠牲者は2400人を超えた。真珠湾攻撃の翌日、米議会は日本に宣戦布告した。3日後、ドイツが米国に宣戦布告し、米国にとっての二正面戦争が始まった。(c)AFP