【5月11日 CNS】中日両国の交流・往来はずっと注目されている。中日文化交流を見届ける重要な学術分野は中日考古学界にほかならない。中日考古学界の交流は1957年の日本考古学代表団の訪中から始まり、50年以来、中日考古学界の交流と協力は大きな発展を遂げた。

 中国社会科学院考古研究所の元副所長で、中国と日本でも名声を博している考古学者の白云翔(Bai Yunxiang)氏は、長期的に中日考古学の交流・協力の推進に尽力している。彼はインタビューで、長年の考古学研究によると、中日両国間の文化交流は紀元前5世紀から紀元後3世紀にかけて始まり、中国が戦国秦漢時代に入り、日本が弥生時代に入ってから徐々に発展してきたと紹介した。

 中国と日本列島の間の往来や文化交流のルートはいくつもあるが、「環黄海の道」の海上交流ルートが最も重要なものだ。具体的には、中国の長江下流域から始まり、中国東部の黄海沿岸部、山東半島、遼東半島、朝鮮半島を経て、海を渡って日本の九州北部に至るまでの「環黄海陸路・水路」であり、中国稲作農耕文化の漸次東伝の道でもある。それゆえ、日本列島、特に九州地方の弥生文化は、中国の環渤海・黄海沿岸地帯の戦国秦漢時代の文化と最も密接に結びついている。

 中国文化の日本列島への東伝は、文化交流にとどまらず、弥生時代の日本の文化・社会の発展に重要な役割を果たした。社会生産・技術面では、稲作農耕技術の導入と段階的な発展により、日本の地域社会は徐々に農耕社会へと移行した。中国の青銅器や鉄器、鋳造技術の導入により、日本列島は紀元前2世紀の弥生時代中期以降、徐々に金属器時代へと突入していくことになる。

 中日両国は一衣帯水の隣国で、日本の歴史と文化は中国と切っても切れない関係がある。日本古来の稲作農業、青銅器文化、鉄器文化、文字、都市文化、葬祭文化など、いずれも直接または間接的に中国の影響を受けたものだ。

 日本の弥生文化の遺跡・遺物からは、漢代遺物が広く発見されている。不完全な統計によると、日本列島で漢代遺物が出土した弥生文化遺跡・古墳は80以上に達し、九州島、四国島と本州島の西部地区に分布し、特に九州北部地区に最も集中しているという。

 日本で出土した漢代遺物には、主に金印、銭貨、銅鏡、鉄器などがある。銅鏡は発見場所が最も多く、出土数が最も多い漢代遺物だ。これまでに完全な姿の遺物が約250点、銅鏡の破片が約270点、前漢鏡、新莽鏡、後漢鏡を含む漢代の主要な鏡の種類は、ほぼすべて発見されている。

 また、唐代の中日関係は緊密で、唐代文化は日本文化に重要な影響を与えた。奈良時代の都である平城京の設計や建築は、隋唐時代の長安城・洛陽城の影響を直接受けた。僧侶の鑑真のために建てられた唐招提寺は現在も保存されており、その他の寺院も唐の寺院の形式や構造に直接影響を受けているものが数多く存在している。奈良時代に東大寺の正倉があった院である正倉院には、奈良時代の聖武天皇の遺品とその他重要な文物が収蔵されており、その中には唐の遺物も多数ある。(c)CNS/JCM/AFPBB News