やがて郎朗が学校に行く年齢になると、両親は一大決心をする。「息子を小さな池の中の大魚にしたくない」。郎国さんは郎朗を北京の国内最高ランクの音楽学校、中央音楽院付属小学校に入学させると決心した。そのために試験を受けて、数千人の中から選ばれる数十人の合格者の一人にならなければならない。

 この決断に至るまで、両親の間では激しい議論があった。なぜなら、それは瀋陽での家族の安定した暮らしのすべてを賭ける一種のばくちであったからだ。

 郎朗の試験のために、郎国さんは空軍文工団退役後に就職していた瀋陽治安維持特別警察部隊を辞職し、息子とともに北京に移住した。二人の北京での生活費は、母親が瀋陽から仕送りしていた。下宿代、ピアノレッスン費用、食費そのたもろもろ、決して安い費用ではなかった。冬は、暖房もなく、厳しい生活が続いたという。

 郎朗はそのころのことをこう振り返る。「ピアノを弾いていると手が温かくなった。私は深夜もよくピアノを弾いていたのだが、それは寝床が冷たくて寝られなかったから。私が暖かく寝ることができるように、父は先に、私のベッドに入って温めてくれていた」

 郎国さんの北京での郎朗のピアノレッスンへの監督ぶりは、執念といっていいほどのすさまじさだった。