【11月16日 MODE PRESS】「私には銀行家と芸術家、両方の血が流れていたのね、きっと・・・」そう言って微笑むのは、元世界銀行のシニアアドバイザーで現在、芸術家として世界を舞台に活躍する小野節子(Setsuko Ono)さん。ワシントンDCとパリ、両方にベースを構えながら、アーティスト活動を通して世界中を飛び回る生活は、世銀在職中と変わらずアグレッシブな毎日だ。10月のある晴れた日、日本に帰国していた小野さんにお会いした。

■インタビュー:芸術家・小野節子

ー銀行家と芸術家の血  

 安田財閥創立者の安田善治郎氏が曾祖父という文字通り“華麗なる一族”に生まれた小野さん。その家系はおもしろいほどに、芸術家と銀行家がずらりと顔を並べる。祖父は元日本興業銀行総裁の小野英二郎氏。父・小野英輔氏は、戦後すぐに東京銀行NY支店長を務めた。また、画家の安田岩次郎氏と彫刻家の安田周三郎氏は叔父にあたり、バイオリニストの小野アンナさんは叔母、従兄弟に画家の石井茂雄氏、芸術家の小野洋子さん(オノ・ヨーコ)は実の姉にあたる。つまり小野さんが世界銀行に勤めることも、その後芸術の道に進むことも、すべてが必然的なことだったのかもしれない。

ー父母、幼い頃からの教え  

 時代を常に牽引してきた家系であると同時に、社会に対しても高い意識を持っていた小野家は、教育方針も常に先を見据えた考え方だった。その証拠に、日本がまだ著しい発展を遂げるまえの戦前から、男女分け隔てなく自分のキャリアを持ち、日本のために、社会のために必要とされる人間になりなさい、常々両親は子供たちにそう言い聞かせていたという。戦後の日本を支えるのは、グローバルな感覚を持った人間だといち早く感じていた父は、ピアノやバレエのお稽古事をはじめ、最高の英才教育も積極的に受けさせた。ここでも男の子だから・・・とか女の子だから・・・という固定概念を抜きに、兄と姉妹は分け隔てなく同じ習い事をさせられたそうだ。

ー世銀からアーティストへの転身  

 そんな両親の教えを元に、小野さんは兄姉が通っていた学習院ではなく聖心女学院に進学。大学卒業後は、スイス・ジュネーブ大学で博士号を取得し、さまざまな経緯を経て、世界銀行に就職する。ここまで聞くと、やはり華麗なる一族じゃないか・・・と思う人もいるかもしれない。しかし、小野さんが選んだ世界銀行での銀行家としての道はとても険しく、茨の道、いや獣道だったというほうが正しいかもしれない。世界銀行という特殊な組織のなかで、日本政府や企業の後ろ盾を持たずに入行した小野さんを待ち受けていたのは、困難の上に困難が続く厳しい現実だった。  

 世銀就職後すぐに、アフリカ業務局モーリタニア担当としての仕事が始まる。日本では考えられないようなシーンに立ち会うこともしばしばあった。延々と続く砂漠のど真ん中では、迷子になり生死を覚悟した。直属の上司や同僚からの辛辣な圧力も幾度となく経験した。海外で、しかも巨大な国際機関で女性が一人、想像を遙かに超えた苦労をする。さまざまな経験をするなか、ふとしたきっかけから世界銀行近くにあったコルコラン大学の夜間コースで美術を学びはじめる。  

 政治的で細かな事の連続といえる銀行家の仕事と、アート作品の制作に没頭できる芸術の世界。このバランスこそが、小野さんの精神面にプラスの効果を発揮していた。世銀の仕事は、時間をかけた分の結果が必ずしも形になるものではなかった。というのも、その土地の政治情勢などによって、長い時間をかけてきた計画でも一瞬にして水の泡になってしまう、なんてことは日常茶飯事だった。そんな、どこにもぶつけようのない想いを抱えた状況で精神的に追い込まれた時も、自分自身のバランスが取れていたのは彫刻をやっていたおかげだったと振り返る。それによって、世銀の仕事にも、彫刻にも全力で打ち込むことができたと小野さんは言う。そして徐々に、アーティストとしてゼロから作品を生みだす魅力と、それらが生まれる瞬間に取りつかれ始めていたのかもしれない。世銀退職後の芸術家への道は、なんとも必然的な流れだったといえるだろう。

ー夢を現実に  

 今回、小野さんが帰国したのにはある理由があった。今年春から、小野さんの彫刻「夢」が群馬のハラ ミュージアム アーク(Hara Museum ARC)で常設作品として展示されているのだが、本人立ち会いの下でお披露目会がまだ行われていなかった。今回ようやく小野さんが帰国するタイミングで会が催され、沢山の人に見守られるなか、新しい作品を晴れてお披露目したのだ。  

 その彫刻作品というのは、これまでキューバ・ハバナビエンナーレをはじめ、世界中で設置・展示してきた「夢」シリーズの新作だ。軽やかで薄いレースのような彫刻はキラキラと輝き、そこに描かれている人間や鳥、動物、そして美しい木花が描かれている。「人が人と仲良く暮らす社会、そこには幸せそうな動物がいて、美しい木花に囲まれていて・・・。そんな幸せな環境をいつも私は夢みているの」。

ー銀行家も芸術家もおなじ  

 銀行家と芸術家、一見まったく異なる2つのようだが、小野さんは同じだという。  

「私の経験上、自分のやっていることにどれだけ強い熱意と素晴らしい目的があっても、そこに“想像力”がなければうまくいかない。世銀のような巨大な国際機関は組織上のややこしい問題はもちろん大変だけれど、それ以上に“助ける(援助する)”ということを仕事にするのはもっと大変なことの連続。文化も違えば、言語も違う、習慣も違う環境で、今、目の前にいるひとたち(貧困国)の身に起きている問題を解決するためには、ありとあらゆる事を想像し、予測し、行動しなければいけない。そう考えると銀行家も芸術家も、想像力抜きには語れないでしょ」と笑う。

ーポジティブなマインドこそ  

 ここまでを振り返ってみても、きっと小野さんに対する一般的なイメージは、いやいやそうは言っても間違いなく恵まれた環境のなかで生きてきた人でしょ・・・と言う人もなかにはいるかもしれない。しかし、そんな単純で簡単に語れるような人生でも、キャリアでも、ましてや人物でもない。世界という大きな舞台において、こと世銀に入ってしまえば、小野さんのバックグランドはさほど意味を持たない。それよりも、その想像を遙かに超えた大きな荒波のなかで、あらゆる問題に直面しながらも、決して揺らぐことのなかった清く高潔な信念こそが、小野節子という人物を表しているのではないだろうか。  

 「いかに自分が社会に貢献できるか、そして世の中のために役に立てるか」両親のこれらの教えは、芸術家に転向した今もなお彼女のなかに強く息づいている。例え心が折れてしまいそうな出来事がその身に起きたとしても、決して投げやりにならず常にポジティブでアクティブであれるような生き方、これこそが小野さんスタイルなのだ。【岩田奈那】(c)MODE PRESS

<インフォメーション>
・小野節子公式サイト
・小野節子著書「女ひとり世界に翔ぶ 内側からみた世界銀行28年」
・ハラ ミュージアム アーク公式サイト