あなたの知らない世界遺産:中国・北京-杭州大運河の物語
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【7月4日 CNS】今年は中国が北京-杭州大運河の「世界遺産(World heritage)」登録成功から10周年、「大運河国家文化園区」建設の開始から5周年にあたる。中国と外国との交流の歴史において、大運河はどのような重要な役割を果たしてきたのだろうか。
浙江外国語学院(Zhejiang International Studies University)院長で大運河国際研究センターの張環宙(Zhang Huanzhou)所長は「北京-杭州大運河は17世紀以来、東西文化を結ぶ活発な通り道となっていた」と話す。大運河は全国から首都に物資を運ぶだけでなく、中国を深く理解しようとする外国使節、宣教師、商人、探検家など多くの西洋人をこの水路に惹きつけた。元代に運河沿いに長年暮らしたマルコ・ポーロ(Marco Polo)は、「東方見聞録(The travels of Marco Polo)」の中で、運河沿いの都市の繁栄を生き生きと描き、ヨーロッパの人びとに東洋への憧れを抱かせた。
宋時代には、印刷技術の発達により、仏教教義をまとめた経典「大蔵経(Dazangjing)」をはじめとする大量の書物が大運河を通って海外へと運び出された。同時に、明時代には、天文学をはじめとする西洋の科学知識が、マテオ・リッチ(Matteo Ricci)などの宣教師とともに大運河沿いに広まり、科学技術や文化の双方向の交流が促進された。
中国と世界の経済や貿易は運河のおかげで繁栄した。明・清時代には、蘇州などの舶来品商店で世界各国の商品が売られ、運河が国際貿易を促進する役割を果たしたことがわかる。また、宋代には市舶司(Shibosi)など対外貿易を司る機関が運河沿いに設置され、国際貿易を管理しただけでなく、外国使節や商人たちを温かく迎えていたことが分かっている。
大運河はまた、古代の朝鮮半島の国・新羅や日本などとの文化交流の重要な経路でもあった。例えば、新羅は運河沿いに新羅人の居留地「新羅坊」を設け、また日本の僧侶は中国に仏教の教義と知識を求め、大運河を通り、大陸の奥まで旅をした。
北京-杭州大運河にはこのような輝かしい歴史がある。今後、大運河の物語を世界にどのように伝えていくべきだろうか? 張氏は、国際的観光振興は試す価値があると見ている。
現在、中国の世界遺産の中で、北京-杭州大運河は残念ながら外国人観光客の訪問率が低く、大運河の文化の海外への伝達の妨げとなっているという。
「我々はさらに運河にまつわる知識と情報を収集し、連携して大運河の文化的価値を掘り起こし、東洋と西洋の共通価値に基づく遺産価値評価を確立し、より国際化された文化観光の対象として活用していく必要がある」、張氏はこのように考えている。
日本の富士山、米国の自由の女神像、英国のウェストミンスター大聖堂、ドイツのライン川中流・上流の渓谷など世界各地の文化遺産は、観光名所としてその国のイメージ形成に歴史的な、現代的な役割を果たしてきた。
北京-杭州大運河もまた、現代における中国の国家イメージを構築する文化的遺伝子を自然に備えている。その優しさ、連絡性、開放性という運河の特質は、中国の文明的で自信に満ちた大国としてのイメージの本質的なニーズを満たすものと言えよう。(c)CNS/JCM/AFPBB News