【9月13日 AFP】女子テニスのセレーナ・ウィリアムス(Serena Williams、米国)は、治安の悪さで知られる街の公営コートで練習していた少女から、この世代で一番のスーパースター、さらにおそらくは史上最高の選手へ成長していった。

 40歳となる現在は引退が近づいており、アイラ・トムリャノビッチ(Ajla Tomljanovic、オーストラリア)に敗れた2日の全米オープン(US Open Tennis Championships 2022)女子シングルス3回戦が、現役最後の試合になるのはほぼ間違いない。娘のアレクシス・オリンピア(Alexis Olympia)ちゃんとの家族の時間に目を向けながら、セレーナは「母親になり、別のバージョンの自分を探す準備はできている」と話す。

 セレーナは、圧巻のショットを象徴するパワーと負けん気の強さで四大大会(グランドスラム)23勝を挙げるなど、数々の記録を樹立。白人が大多数を占めるテニス界で、アフリカ系アメリカ人の象徴となった。

 セレーナと、グランドスラム7勝を挙げている姉のヴィーナス(Venus Williams、米国)がエグゼクティブプロデューサーを務めたハリウッド映画『ドリームプラン(King Richard)』では、二人が父親のリチャード(Richard Williams)さんにテニスを習いながら、治安の悪いカリフォルニア州コンプトン(Compton)で育っていく様子が描かれている。

 2013年の全米オープンで優勝した際、セレーナは「私は今もラケットと夢を手にした女の子で、ただ夢のためにプレーしている」と話している。夢を実現したセレーナは、全豪オープン(Australian Open Tennis Tournament)7回、全仏オープン(French Open)3回、ウィンブルドン選手権(The Championships Wimbledon)7回、全米オープン6回の優勝を飾った。

 グランドスラム初優勝は17歳で制した1999年の全米オープンで、最後は妊娠中に出場した2017年の全豪オープンだった。シーズンをまたいで四大大会を全制覇する「セレーナ・スラム」は、2002年の全仏オープンから2003年の全豪オープンまで、また2014年の全米オープンから2015年のウィンブルドンまでの2回達成している。

 それでもセレーナは、「数字へのこだわりはずっとあまりなかった。テニスを始めたのは最高の選手になりたかったからではなく、単にラケットと夢を持っていたから。今では私がそう(史上最高の選手)なれるかもしれないと言う人もいるけど、自分としてはまだその域に達していないと思う」と過去に話している。

「クリス・エバート(Chris Evert)とマルチナ・ナブラチロワ(Martina Navratilova)、シュティフィ・グラフ(Steffi Graf)が、私にとってはまさに女子テニス史上究極のアイコン」

 スタイルとパワーを備えたセレーナのテニスだが、身にまとうファッションのデザインが、コート上での圧巻のプレーから注目を奪うこともあった。ツアーでは通算73勝を挙げているが、最後にタイトルを獲得したのは2020年1月のASBクラシック(2020 ASB Classic)で、母親になってから優勝したのはその1回だけとなっている。

 マーガレット・コート(Margaret Court)氏が持つグランドスラム最多24勝の記録に並ぶチャンスは4回あり、2018年と2019年のウィンブルドンと全米オープンで決勝に進出したが、いずれも敗れてあと一つ届かなかった。

 またセレーナのキャリアは、逆境との闘いでもあった。2003年には腹違いの姉で、セレーナが個人的に頼りにしていたイェトゥンデ・プライス(Yetunde Price)さんが、故郷のコンプトンでギャングの一員に撃たれ、31歳で命を落とす事件があった。

 2010年のウィンブルドン制覇後には、ドイツのレストランで足を切り、2回の手術を要して歩行用ギプスが20週間も外せなかった。セレーナは、そのせいで翌年には肺に血栓ができ、翌年には命の危険もあったと話している。結局この時期はグランドスラム3大会を欠場し、ほぼ1年にわたって離脱した。

 セレーナは、成功の要因は父親のはたらきと、両親が離婚した後も父に付いていったことだと考えており、「父がおらず、父の支えがなかったら、タイトルを一つも取れていなかったはず」と話している。(c)AFP