【5月2日 AFP】サッカー元日本代表監督で、1990年代には旧ユーゴスラビア崩壊直前に同代表チームを率いたことでも知られるイビチャ・オシム(Ivica Osim)氏(80)が1日に亡くなったと、地元ボスニア・ヘルツェゴビナのメディアが報じた。

 国営放送BHRTによれば、サラエボ出身のオシム氏はオーストリアのグラーツ(Graz)で息を引き取ったという。

 ボスニアのシェフィク・ジャフェロビッチ(Sefik Dzaferovic)幹部会員は、「オシムは伝説的な『グルバビツァ(Grbavica)のシュトラウス』として、一流の選手・監督として、さらに比類なきカリスマ性と道徳的資質を備えた偉大な人間、愛国者として記憶されるだろう」とコメントした。

 オシム氏はサラエボ近郊のグルバビツァで育ったことから、「グルバビツァのシュトラウス」と呼ばれていた。

 1959年、MFとしてボスニア1部のFKジェリェズニチャル・サラエボ(FK Zeljeznicar Sarajevo)で現役キャリアをスタートさせたオシム氏は、同クラブで2期にわたり計11年間プレーした。

 1970年には活躍の場をフランスに移し、ストラスブール(RC Strasbourg)やCSスダン・アルデンヌ(CS Sedan Ardennes)、バランシエンヌ(Valenciennes FC)を渡り歩いた。

 現役引退後の1978年、古巣ジェリェズニチャルで指導者としてのキャリアをスタートさせたオシム氏は、全盛期を迎えていたユーゴスラビア代表を率いて1990年のW杯イタリア大会(1990 World Cup)に出場すると、ディエゴ・マラドーナ(Diego Maradona)氏を擁するアルゼンチンにPK戦で敗れたものの、チームを8強に導いた。

 1992年から1995年まで続いたボスニア紛争でサラエボがセルビア軍によって砲撃され始めた際、オシム氏はなんとか涙をこらえながらセルビアの記者団に対し、「私がサラエボ出身であること」を覚えておいてほしいと訴えた。

 その後はセルビア1部パルチザン・ベオグラード(Partizan Belgrade)やギリシャ1部パナシナイコス(Panathinaikos)、オーストリア1部SKシュトゥルム・グラーツ(SK Sturm Graz)、当時Jリーグ1部(J1)に所属していたジェフユナイテッド市原(JEF United Ichihara、現ジェフユナイテッド千葉(JEF United Chiba)、日本代表を率いた。

 この日の夜、ジェリェズニチャルの本拠地であるグルバビツァ・スタジアム(Grbavica Stadium)にはファンが押し寄せ、オシム氏を追悼するために照明がともされた。オシム氏が6日に81歳を迎える予定だったことから、照明は81分間ともされた。また、サラエボ市庁舎には同氏の巨大な写真が映し出された。

 現役時代、90年W杯を含めユーゴスラビア代表の一員としてオシム氏の下でプレーし、現在はセルビア代表を指揮しているドラガン・ストイコビッチ(Dragan Stojkovic)氏は、恩師を「優れた洞察力を持つサッカーの戦術家」と評した。

 同国サッカー協会(FSS)の公式サイトが公開した発表文の中で、ストイコビッチ氏は「オシムは旧ユーゴスラビアのサッカー界において最も重要な存在の一人であり、そのように記憶されるだろう」と述べた。(c)AFP