【5月1日 AFP】サッカー界有数の大物代理人で、ポール・ポグバ(Paul Pogba)やアーリング・ブラウト・ハーランド(Erling Braut Haaland)らを顧客に持つミノ・ライオラ(Mino Raiola)氏が54歳で亡くなった。30日に家族が発表した。

 ライオラ氏の家族はツイッター(Twitter)で、「計り知れない悲しみの中ではありますが、最も思慮深い、史上最高のサッカー選手代理人の死を共有します」と発表すると、「選手を守るために交渉のテーブルについているときと同じような強さで、ミノは戦い抜きました。ミノはそんなこと気にかけていませんでしたが、いつものように私たちを誇らしい気持ちにさせてくれました」と記した。

 家族は病名を発表していないが、ライオラ氏は過去に命を救われたことがあるイタリア・ミラノ(Milan)のサンラファエレ病院(San Raffaele Hospital)に入院していたという。

 ACミラン(AC Milan)のFWズラタン・イブラヒモビッチ(Zlatan Ibrahimovic)をはじめ、豪華な顧客リストを誇るライオラ氏は、物議を醸すキャラクターを持つ最も影響力のある代理人の一人として長いキャリアを築いた。

 同業者からの反応は比較的静かだが、ドイツ・ブンデスリーガ1部、ボルシア・ドルトムント(Borussia Dortmund)に所属するハーランドは、ライオラ氏と撮影した写真と「最高」という短いメッセージをツイッターに投稿した。

 ライオラ氏は手がけた契約で多額の手数料を取り、選手の給料を高騰させたとして批判を受けたが、選手からの評判は良かった。

 1967年にイタリア南部のノチェーラ・インフェリオーレ(Nocera Inferiore)で生まれたライオラ氏は、1歳で家族に連れられてオランダのハーレム(Haarlem)に移ると、中世に栄えた町で家族が営むピザ店で働き、そこからサッカー界で最も力を持つ代理人への道を歩み始めた。

 最低でも週に1回このピザ店で食事をした地元のクラブ、HFCハーレム(HFC Haarlem)の上層部の会話に割って入り、クラブの状況について私見を述べたというライオラ氏は、短い間同クラブのテクニカルディレクターを務め、その後有力オランダ人選手のイタリア移籍に特化したエージェンシーを設立した。

 しかしより大きな構想を持っていたライオラ氏は、独自の新しい道を切り開き、1996年に現在ユベントス(Juventus)の副会長を務めるパベル・ネドベド(Pavel Nedved)氏のラツィオ(SS Lazio)移籍を成立させて一躍時の人となった。当時セリエAは世界最強リーグで、ラツィオはその中でトップクラブの一つだった。

 そこからサッカー界の頂点まで駆け上がったライオラ氏は、その過程で手を緩めることはなかった。

 辣腕(らつわん)がたたってヨハン・クライフ(Johan Cruyff)氏や、現在マンチェスター・シティ(Manchester City)を率いるジョゼップ・グアルディオラ(Josep Guardiola)監督と衝突したライオラ氏は、クライフ氏と当時スペイン1部リーグのFCバルセロナ(FC Barcelona)を率いていたグアルディオラ監督に対し、「一緒に精神科に行くべきだ。そこで黙ってカードゲームでもやってろ」と批判した。

 また、2016年にユベントスのゼネラルマネジャー(GM)だったジュゼッペ・マロッタ(Giuseppe Marotta)氏は、ポグバが夏にマンチェスター・ユナイテッド(Manchester United)に当時世界最高額の1億500万ユーロ(約144億円)で移籍した際、ライオラ氏が2700万ユーロ(約37億円)を手にしたと明かした。

 しかし、キャリアを導いてもらい、経済的にも豊かにしてもらった選手側の評価は総じて高く、イブラヒモビッチは2011年に出版した自伝で、「ここで詳しく説明するか? ミノは天才だ」とライオラ氏を称賛している。(c)AFP