■「自由になりたかった」

 ヤン氏は日本で差別に直面したと言う。仕事では何度も不採用になり、朝鮮人だからと映画プロジェクトから外されたこともあった。

 同時に、在日朝鮮人コミュニティーの中の親北感情にも反抗した。

 朝鮮総連が運営する大学で文学を学んでいた時、北朝鮮2代目の最高指導者、金正日(キム・ジョンイル、Kim Jong Il)氏の「文学理論」に沿ったテキストの解釈が学生に求められた。ヤン氏は一度、白紙のまま提出したことがあると語った。

「私は自由になりたかったのです」とヤン氏は言う。「日本人のふりをして、父や兄たちのことをごまかすこともできました。何も問題を意識していないかのように振る舞って」

「でも本当に自由になるには、すべてと向き合う必要がありました」

 結婚に失敗し、3年ほど北朝鮮系の高等学校で教師をした後、ドキュメンタリー映画の製作を学ぶためにニューヨークへ向かった。そして、映画を通じて家族のストーリーを語り始めた。

 2005年に公開された最初のドキュメンタリー映画『ディア・ピョンヤン(Dear Pyongyang)』は、米サンダンス映画祭(Sundance Film Festival)やベルリン国際映画祭(Berlin Film Festival)で批評家に絶賛された。

 北朝鮮を内側から独自の視点で描いた貴重な作品で、ヤン氏が兄たちと会うため北朝鮮を訪れるたびにビデオカメラで撮影した映像が使用されている。

 朝鮮総連はこのドキュメンタリーに激怒し、謝罪を求めた。その頃にはヤン氏はすでに韓国籍を取得しており、兄たちに再び会うために北朝鮮へ行くことはできなくなっていた。

「とてつもない代償でしたが、後悔していません。少なくとも、自分自身の願いを貫きました。映画を作ること、自分の家族の物語を語ることです」