■サウル・オレンさん

1929年ポーランド生まれ
アウシュビッツ囚人番号125 421

 同じくアウシュビッツを生き延びたサウル・オレン(Saul Oren)さん(90)も、「残忍な」飢えについて語った。オレンさんによると、囚人らに与えられたのは水っぽいスープだったという。

「スープだけで1日過ごすこともあった。または小さなジャガイモかパンのかけらを与えられることもあった」

「後々まで取っておきたかったので、パンを全部食べようとは思わなかった」

 オレンさんの母親はアウシュビッツで殺された。母親の写真は残っていないが、絵を描くことで、母の姿を残そうとしている。

 強制収容所を出た後も、飢えはオレンさんに付きまとった。

 旧ソ連軍が進攻してくると、ナチスは「死の行進」を敢行し、囚人らを厳しい寒さの中で強制収容所からドイツとオーストリアに向けて歩かせた。

「私たちは12日間、ほとんど食べる物もなく歩いた。(中略)森で休んだ時、死んだ馬を見つけた。全員が馬の死骸に群がり、食べた」とオレンさんは回想録に書いている。

■シュムエル・ブルメンフェルドさん

1925年ポーランド生まれ
アウシュビッツ囚人番号108 006

 シュムエル・ブルメンフェルド(Shmuel Blumenfeld)さんも「死の行進」の生存者だ。ブルメンフェルドさんは、ホロコースト(Holocaust、ユダヤ人大量虐殺)で主要な役割を果たしたアドルフ・アイヒマン(Adolf Eichmann)の看守をしたことがある。

 イスラエルに連行されたアイヒマンは、エルサレムで裁判を受け、1962年に絞首刑となった。

 ブルメンフェルドさんはアイヒマンに向かってアウシュビッツの入れ墨を見せながら、「おまえの部下は命令を完遂できなかったぞ。私は2年間あそこで過ごしたが、まだ生きている」と言ったという。

 ブルメンフェルドさんは近年、ポーランドを繰り返し訪れ、家族が殺されたそれぞれの場所から土を持ち帰っている。土は、黄ばんだ小さな袋に入っていて、それを自分の墓に一緒に入れるよう自身の子どもたちに頼んであるという。

 ブルメンフェルドさんは高齢だが、今もイスラエルの若者らとポーランドを訪れている。