【2月2日 AFP】接触によって広がる致死性の伝染病が広がっているのは、武装集団が支配権をめぐって争っているジャングルに囲まれた辺ぴな地域だった。ここに住んでいる人々は、数十年も続いた紛争に疲れ果て、よそ者にうんざりし、この病気の治療に当たるために防護服に身を包んでキャンプを設営している欧米から来た人間たちに不信の目を向ける。地元住民にとってこのキャンプは、家族が行ったきり、生きて戻って来ないことも多い場所だった。

 コンゴ民主共和国の北東部以上に、エボラ出血熱の流行地域として危険で厄介なところは思い付かない。

 同国東部では今、史上2番目の規模でエボラが大流行し、公式の統計によると、昨年8月に病気が再びはやり始めてから少なくとも249人の死者が出ている。正確に言えば、これはエボラで死亡したことが特定された人数で、実際の死者数はもっと多いはずだ。だがNGOはこの地域を自由に移動できないため、正確な死者数は誰も把握していない。

コンゴ民主共和国オイチャ郊外で、付近で銃撃が発生して走り出す、コンゴ民主共和国安定化ミッション(MONUSCO)に参加している南ア出身の兵士(2018年10月7日撮影)。(c)AFP / John Wessels

 今回の大流行がいかに複雑であるかを知るには、状況を理解する必要がある。資源が豊かな北キブ(North Kivu)州は、ウガンダとルワンダに近い辺境だ。ここで産出される鉱物の多くは、スマートフォンやコンピューターなどの電子機器には欠かせない。辺ぴであることも重なり、ここは国内外の武装勢力にとっては一種の避難所であり、入れ代わり立ち代わりやってくる新たな頭文字の団体と忠誠心とレゾンデートル(存在理由)が錯綜(さくそう)する場所でもあった。

 ここでの暮らしはどのようなものか。主要な町ブテンボ(Butembo)と隣のベニ(Beni)を例に挙げてみよう。そこかしこでゲリラスタイルの攻撃が散発的に発生する。前回ベニに滞在したときには、家屋1棟が迫撃砲攻撃を受け、別の1棟も攻撃され、男性1人が死亡し、子ども4人が拉致された。事件が起きたのは、私が滞在していた場所からバイクで5分程度しか離れていなかった。近くから聞こえてくる銃撃戦の音で朝5時に目覚めることも珍しくない。地元記者の友人は、攻撃を避けるために毎日夕方6時には自宅に戻っている。この友人は、午前中にはそうした攻撃を、午後にはエボラの発生状況について取材に行く。精神的にも非常にきつい。

 ブテンボはさらに厄介な問題を抱えている。町の周囲には武装集団がうろうろしているため、周辺地域にはめったなことでは行けない。病人が出たら、町の外に連れ出すにはまず武装集団と交渉しなければならないときもある。場合によっては、そのために武装した護衛を付けなければならない。

コンゴ民主共和国オイチャで、付近で迫撃砲や機関銃の攻撃音が聞こえた後、イスラム武装勢力「民主同盟軍(ADF)」の戦闘員らの逃走を阻止するために交差点で銃を構える、コンゴ民主共和国安定化ミッション(MONUSCO)に参加している南ア出身の兵士(2018年10月15日撮影)。(c)AFP / John Wessels

 エボラの特徴と治療法も、この病気の治療をますます難しくしている。

 エボラは接触感染する病気だ。そのため患者は隔離する必要があり、それまでに誰かにうつしていないか確認するために医療従事者は接触者を追跡しなければならない。患者1人につき、場合によっては100人の接触者が考えられるため、その場合は追跡調査する人数も100人となる。

 患者を隔離するため、NGOはセンターを設立し、職員は自らの接触を防ぐために頭の先から爪先まで防護服に身を包んでいる。エボラは非常に攻撃的なウイルスで、こうしたセンターに収容された人々が生還できないケースも多い。遺体も非常に感染力が強いため、埋葬時も慎重に扱う必要がある。

コンゴ民主共和国ブテンボにある国境なき医師団(MSF)の支援を受けたエボラ治療センター(ETC)で、感染が疑われる患者をベッドに連れて行く医療従事者(2018年11月3日撮影)。(c)AFP / John Wessels

 こうした情報をすべて踏まえた上で、ここに住んでいる人々の観点から状況を想像してみてほしい。これまでに武力闘争で自宅から避難した経験が1回、いや2回か3回、あるいはもっとある。友人や近所の人が攻撃を受けて死亡したこともある。一晩中攻撃を受けても、翌日、その地域を訪れたときには分からないこともある。人々が普通の生活に戻っているからだ。

 そうした中で、人が亡くなり始める。こちらで1人、あちらで1人。歯茎や目、耳から血を流し、見るからに恐ろしい症状を呈しながら亡くなっていく人もいる。地元住民をパニックにさせるこうした状況に拍車をかけるのが、小さな町に大勢のNGO職員や記者が四輪駆動車に乗って次々にやって来ることだ。エボラ治療センター(ETC)と呼ばれる施設が設立され、そこでは宇宙服のような防護服を着用することが求められる。

コンゴ民主共和国ブテンボにある国境なき医師団(MSF)の支援を受けたエボラ治療センター(ETC)の危険区域に入って患者の検査を行う前に、着用した防護服を鏡で点検する医療従事者(2018年11月3日撮影)。(c)AFP / John Wessels

 ここでさらに考えてみてほしいのだが、自分の愛する家族がエボラウイルスに感染し、防護服に身を包んだ人間たちに、ETCと呼ばれる恐ろしい場所に連れて行かれる。そうこうするうちに収容された家族は命を落とし、遺体を特定の方法で埋葬しなければならないと告げられる。自分が属している文化の伝統とは一切関係ない方法でだ。

コンゴ民主共和国ブニアにある国境なき医師団(MSF)の支援を受けて新設されたエボラ治療センター(ETC)の危険区域にいる医療従事者(2018年11月7日撮影)。(c)AFP / John Wessels

 こうして考えてみると、この病気をめぐる厄介な問題がいかにたくさんあるかが分かってくるはずだ。なぜこれほど大勢の人々がいきなり死んでしまうのか。なぜ、遺体をきちんと見せてもらえないのか。なぜ、先祖たちが何世代も続けてきた方法で家族を埋葬することが許されないのか。

 こうしたことに加え、(2018年12月に実施された)大統領選はさらに不穏な空気をもたらし、流言も広がりやすくなった。私自身、怒鳴られたこともある。高齢の男性が私を見て指さしながら大声で言ったのだ。「エボラをここに持ち込んでいるのはおまえだな。そうやってコンゴから金をむしり取るんだろう」

 こう考えると、国際NGO「オックスファム(Oxfam)」や国際医療支援団体「国境なき医師団(MSF)」、国際医療活動連盟(ALIMA)などによるここでの活動は驚異的だ。治療、そして支援活動、いずれに関してもだ。こうした地域で効果を上げるには、地元社会と対話する必要がある。エボラとは何なのか、どんな症状が出るのか、どんな治療法、予防策を行うのかを人々に説明しなければならない。地域の状況を考えれば、極めて難しい課題だ。

コンゴ民主共和国ブテンボにある国境なき医師団(MSF)の支援を受けたエボラ治療センター(ETC)で、エボラ感染を疑われる生後4日の赤ん坊を抱えた医療従事者(2018年11月4日撮影)。(c)AFP / John Wessels

 そして最後に治療そのものの問題もある。治療センターは一から設立された。医師と物流管理専門家、建設業者が2か月のうちに各地から一斉に集まり、24時間体制で働いて、可能な限りの早さでセンターを立ち上げ、稼働させた。

 彼らは非常に困難な状況で非常に難しい仕事をこなしている。相手にしている人々の多くからは、自分たちがしていることをうさんくさい目で見られている。

 エボラの大流行で、この国の東部で起きている悲劇を改めて思い知らされる。

 街角に立って何気ない日常の風景を撮影しようとカメラを構えていると、1台の小型トラックが後部にひつぎを載せて走って来た。また1人、エボラの死者が出たのだ。ここでは、これが日常の出来事のように見える。ある意味、ありふれた光景であるかのような。人々は立ち止まり、トラックが通り過ぎて行くのを眺め、そして自分の生活に戻っていく。

 バイクに3人乗りして十字架を運ぶ男性たちを見掛けたこともある。その光景に私は胸を突かれた。3人はおそらく、親戚か友人、あるいは愛する誰かの墓に向かうのだ。だが、これもごく当たり前の日常だった。私がこうした光景を目にしたのは、これが最後ではない。

コンゴ民主共和国・北キブ州マンギナで、バイクに3人乗りして十字架を墓まで運ぶ男性たち(2018年8月23日撮影)。(c)AFP / John Wessels

このコラムはコンゴ民主共和国の首都キンシャサを拠点に活動するフォトグラファー、ジョン・ウェッセルズ(John Wessels)が執筆し、2018年12月4日に配信された英文記事を日本語に翻訳したものです。