【7月17日 AFP】巨大な規模の苦痛と勝利。それらが何も報道されずにいる。そして、フラストレーション。誰も気を留めようともしないことへのフラストレーション。コンゴ民主共和国における私の駐在をまとめれば、そういうことになる。

 コンゴ民主共和国に来ておよそ1年になる。だが、この国は一体何なのか、言い表すことが全くできない。あなただけじゃない。かつてのザイール、今ではコンゴ民主共和国として知られているこの国は、ここ何十年にもわたって混乱に陥っている。あなたもたぶん、何人かの指導者の名前はうっすら耳にしたことがあるだろう──パトリス・ルムンバ(Patrice Lumumba)、モブツ・セセ・セコ(Mobuto Sese Seko)、ローラン・カビラ(Laurent-Desire Kabila)、ジョゼフ・カビラ(Joseph Kabila)……地図上のどこにあるか、指し示せないかもしれないが、世界でも有数の豊かな国土をもち、この国で生産される鉱物はスマートフォンやコンピューターといった電子機器に使用されている。

コンゴ民主共和国北東部イトゥリ州ブニアの病院に入院中の少女、メースグレースちゃん(11)。住んでいた村が襲撃され、母親と3人のきょうだいを失い、自分も左手を切り落とされた(2018年3月2日撮影)。(c)AFP / John Wessels

 この国は信じられないほどの明暗に満ちている。映画『愛は霧のかなたに(Gorillas in the Mist)』で知られる女性霊長類学者ダイアン・フォッシー(Dian Fossey)氏は、この国の東部で数か月間、ゴリラの調査を行っていたが、紛争によって避難を余儀なくされ、研究拠点をルワンダへ移さざるを得なかった。

 この国はまた、ここ数十年で最も凄惨(せいさん)な紛争地の一つでもある。1998~2003年の第2次コンゴ内戦(Second Congo War)では、200万~500万人(正確な犠牲者数については論争中)が殺害された。

 この国はアフリカで2番目に大きな国だが、深い森に覆われ、森林の大半へはたどり着くのが困難で、世界の大国から見て何の戦略的価値ももたない。おそらく、だからこの国を苦しめている悲惨な状況が見過ごされているのだろう。

 こうした点の多くが、私がここへ来た理由だ。写真やフォトジャーナリズムといった世界で私はまだ駆け出しで、自分を試し、学び、感情的な自己コントロールを訓練するには適した場所だと思ったのだ。報道過剰状態になっていない場所へ行く絶好の機会だったが、その責任の重さに気が遠くなることも多々ある。

 現在、コンゴ民主共和国は再び、政治的混乱のさなかにある。ジョセフ・カビラ大統領の2期目の任期は、法的には2年前に終わっているはずだが、彼は政権を掌握し続ける方法を模索した。大統領選は2回延期された揚げ句、今年12月に実施されることになっている。こうした背景がある中で、長年くすぶってきた部族間紛争が沸騰するとともに、新たな抗争も発生している。

 つまり、この国で仕事をするということは、悲劇から悲劇へと渡り歩くことになりがちだ。過去数か月を振り返ってみよう。

コンゴ民主共和国南東部タンガニーカ州カレミエにある国内避難民(IDP)キャンプ(2018年3月20日撮影)。(c)AFP / John Wessels

コンゴ民主共和国北東部イトゥリ州ブニアにある国内避難民(IDP)キャンプ(2018年2月27日撮影)。(c)AFP / John Wessels

■イトゥリ

 3月初めに訪れたのは、イトゥリ(Ituri)地方だ。ここはコンゴ民主共和国でも政情が不安定な北東部に位置し、アルバート湖(Lake Albert)の湖岸にあり、その対岸にウガンダがある。

 ここに暮らす二つの集団、牧畜民ヘマ(Hema)人と農耕民レンドゥ(Lendu)人は長年、土地をめぐり対立してきた。1990年代末から2000年序盤にかけて、両者の対立はルワンダとウガンダの介入によって、より広範で残虐な戦闘と化し、国境の内側で繰り広げられた紛争の一部となった。約5万人が殺りくされ、さらに多くが避難民となったが、後に緊張は収まり、住民は帰還した。

 だが衝突は今年、再燃した。過去の悪夢を生き抜いた人々は今、まさに既視感を覚えている。今年に入り、レンドゥの集落が何度も襲われた。最初は山刀を持った集団が村を襲い、家に火を放ち、その焼け跡から家畜や資産を盗んでいった。

 住民たちは少しでもうわさがたつと逃げ出す。以前の戦闘で父母を失い、兄弟姉妹を失い、子どもたちを失った人々は傷を負っている。彼らが常におびえているのは理解できるだろう。

コンゴ民主共和国北東部イトゥリ州ブニアの病院に入院中のマイメ・リチャーズさん(32)。住んでいた村が襲撃され、妻と4人の子どものうちの3人を失い、自らも頭と首にひどい裂傷を負った(2018年3月2日撮影)。(c)AFP / John Wessels

コンゴ民主共和国北東部イトゥリ州ブニアの病院に入院中のバウマ・ヨアメさん(56)。住んでいた村が襲撃され、頭に複数の裂傷を負った(2018年3月2日撮影)。(c)AFP / John Wessels

 私が会ったある女性は、11人いた子どものうち6人を2003年に亡くしたという。そして彼女は今また、残った5人の子どもたちと共に家を追われた。こうした人々が抱えている心の傷は果てしない。

 右腕を使えない女性にも会った。2003年に山刀で襲撃されたのだ。そして今年、彼女は夫を失い、片方の腕しか動かせないまま、独りで子どもたちを育てなければならない。

コンゴ民主共和国北東部イトゥリ州ブニアの病院に入院中のアルフォンシーヌ・モジェタさん(54)。住んでいた村が襲撃され、子ども2人を失い、自分も山刀で切りつけられ後頭部、腕、手に重傷を負った。茂みの中に2日間隠れた後、助けを求めてブニアにたどり着いた(2018年3月2日撮影)。(c)AFP / John Wessels

 過去にそうした恐怖を生き延びてきた人々は、何よりも安全を優先する。襲撃があるといううわさが少しでも広がると、荷物をまとめて逃げ出す。ある晩、チョミア(Tchomia)にいたときに町が襲われているといううわさがたつと、教会やアルバート湖の湖上に安全を求めようとする人々が、途端に道にあふれかえった。

 その光景はシュールでもあった。湖畔の小さな村で真っ暗闇の中、安全な場所を探す人々が集団でゆっくり、静かに道を歩く。頭の上にかばんを乗せて移動する人々や、荷物を運ぶ子どもたちの姿が時折、通り過ぎるバイクの照明で浮かび上がる。

 朝5時に私が湖岸へ行くと、湖の上に数百隻のボートが浮かんでいた。全員、丸太の船に乗り込んで安全な湖上へ漕ぎだし、避難していたのだ。そして、夜明けとともに戻ってきた。

コンゴ民主共和国北東部イトゥリ州にあるアルバート湖畔のチョミアで、襲撃を避けるために一晩湖上で過ごしてから岸に戻ってきた避難民たち(2018年3月5日撮影)。(c)AFP / John Wessels

 今まさに起きている暴力から逃げる人々を取材したのは、これが初めてだった。通常、取材のためにわれわれが到着するのは、避難民キャンプがすでにできあがってからだ。しかしこのときは、まさに目の前で起きている避難を見るために駆けつけることができた。しかも巨大なスケールで。イトゥリ州の州都ブニア(Bunia)の避難民キャンプは、私がそこにいた5日の間に倍の大きさになった。私は仮設住居を建てる人々、自分たちの頭の上に屋根ができるのを待っている人々を見た。キャンプは、そうなるだろうと私が思い描いたよりもずっと大きかった。

コンゴ民主共和国北東部イトゥリ州にあるアルバート湖畔のチョミアで、襲撃を避けるためにボートを出して対岸のウガンダへ逃げようとする避難民たち(2018年3月5日撮影)。(c)AFP / John Wessels

■タンガニーカ

 数週間後には、南東部タンガニーカ(Tanganyika)州の州都カレミエ(Kalemie)へ行った。イトゥリからは南へ約1200キロに位置し、別の湖、タンガニーカ湖(Lake Tanganyika)の湖畔にある。対岸はタンザニアだ。ここでは別の部族間抗争が何十年も続いている。その始まりは、コンゴ民主共和国がベルギーから独立した1960年よりも前にまでさかのぼる。

 ここで対立しているのは、トゥワ(Twa)系のピグミー(Pygmy)族と、バンツー(Bantu)系のルバ(Luba)族で、何十年にもわたって時折、激しい衝突を繰り広げてきた。土地を所有するバンツーは、狩猟採集民であるピグミーにわずかな賃金や酒、たばこなどと引き換えに農作業をさせ、彼らを搾取していると非難されている。一方、バンツーは、村全体を焼き払われたり、人々が矢で射られ殺されたり、妊婦が殺害され内臓を取り出されたりといった恐ろしい襲撃に耐えてきた。

 ここでの状況はまた違う。避難民は1年以上はキャンプにいた。その数は膨大で、カレミエの街だけでも約6万7000人いる。

コンゴ民主共和国南東部タンガニーカ州カレミエにある国内避難民(IDP)キャンプを見下ろす子どもたち(2018年3月20日撮影)。(c)AFP / John Wessels

 あちこちの大規模なキャンプと大量の避難民を目にし、私は大きなフラストレーションを感じた。一体どうして、誰もこれに目を向けないのか。コンゴ民主共和国のタンガニーカ地方に50万人を超える避難民がいるということを、みんな知っているだろうか? なぜ知らないのか? 注目するほどの規模ではないのか? 注目するほど重要でないのか? それとも、コンゴ民主共和国で紛争が起きているという話があまりに日常化し、人々が聞き慣れてしまって見過ごされているのか?

コンゴ民主共和国南東部タンガニーカ州カレミエにある国内避難民(IDP)キャンプで暮らす少女(2018年3月20日撮影)。(c)AFP / John Wessels

コンゴ民主共和国東部タンガニーカ州カレミエにある国内避難民(IDP)キャンプで袋を運ぶ男性(2018年3月21日撮影)。(c)AFP / John Wessels

 いつもこうした場所にいると、思うことがある。どのように取り上げれば、人々に目を向けてもらえるだろうか? 私の写真を通じてどんな感情を伝えることができるだろうか? 人々に実際に写真を見てもらって、この状況を伝えるためには何ができるのか? 他のどこかと同じだなんて思わせないためには、どうしたらいいのか?

 マーサと会って、私にはそれが分かったと思う。目を見張る人物だった。彼女は灰となってしまった町での暮らしを立て直すために、避難民キャンプの外の食料配給所で豆と種子を手に入れ、それを植えていた。本当にパワフルな人物だった。

コンゴ民主共和国南東部タンガニーカ州の村カブトゥンガで種をまくマーサさん。夫と5人の子どもと共に6か月間、国内避難をしていた先から村へ戻ってきた(2018年3月21日撮影)。(c)AFP / John Wessels

 長い時間をかけてこれらの場所へたどり着き、人々と言葉を交わし、彼らの話を共有するために時間を費やしているのに、誰もそれに目を向けないということは、非常にフラストレーションがたまる。いや、もしかしたら目を向けている人はいて、われわれがそれを知らないだけかもしれないが。

このコラムはコンゴ民主共和国の首都キンシャサを拠点に活動するフォトグラファー、ジョン・ウェッセルズ(John Wessels)が、AFPパリ本社のヤナ・ドゥルギ(Yana Dlugy)記者と共同で執筆し、2018年4月25日に配信された英文記事を日本語に翻訳したものです。

コンゴ民主共和国北東部イトゥリ州チョミアのアルバート湖岸に出された避難用ボートの中で眠る避難民の子ども(2018年3月5日撮影)。(c)AFP / John Wessels