【12月22日 AFPBB News】軽快だが哀愁のあるタンゴのリズムが、病院のリハビリ室に響く。ぐるりと並んだ車いすの高齢者たちが見つめる先には、本場アルゼンチン出身の長身の男女2人。男性の力強く気品のあるリードと、女性の繊細で優雅なステップがため息を誘う。(※この記事は、2018年8月30日に配信されました)

 男女の美が濃縮されたタンゴの世界。余韻に浸っていると、「さあ、次は皆さんとアブラッソであいさつしましょう」。タンゴセラピー開始の合図だ。

「アブラッソ(abrazo)」という聞き慣れない言葉は、スペイン語で「抱擁」を意味する。タンゴ発祥のアルゼンチンや、ウルグアイに深く根付いたコミュニケーションだ。

 タンゴセラピーは、タンゴを踊り、心身の健康の維持や回復をはかる療法だ。本場アルゼンチンを中心に広まり、最近では欧米の大学などが医学的効果を立証する研究も発表している。

アブラッソのあと拝むように手を合わせる参加者(2018年6月23日撮影)。(c)AFPBB News/Yoko Akiyoshi

■アブラッソ(抱擁)から始まる

 東京・足立区の水野記念病院で毎月催されているタンゴセラピーでは、日本タンゴセラピー協会(Tango Therapy Association Japan)のインストラクターやボランティアたちが、約50人の患者と一人ずつ時間をかけて抱擁を交わしていく。

 初めのうちは、硬い表情のまま戸惑い気味の参加者たち。ボランティアに促されながらアブラッソをしていくうちに、口元がほころび始めた。最初は座ったまま足踏みをしていた人も、両隣と手をつないでリズムに合わせステップを繰り返すうちに積極的に前に出てくるようになった。立てる人もそうでない人も、ボランティアとペアを組むと、単純な反復ステップでもうまく踊れているような気分になる。

 この日初めて参加した神崎光明さん(74)は、4月に脳出血を患い退院したばかり。「足はまだふらつくが、手拍子やアブラッソが楽しい」とリハビリに意欲的だ。2度目の参加の小脳梗塞で入院中の石丸生子さん(81)は、「前回は座ったきりだったけれど、今日は音楽とエスコートで自然と体が動いたの。今は気分が高揚してるわ」と隣の女性とうなずき合った。

「果たしてこの国では、老いても女性として艶やかに生きていけるだろうか」。日本タンゴセラピー協会会長で、2009年の発足時からのメンバーであるカロリーナ・アルベリシ(Carolina Alberici)さん(46)が、老後に不安を感じたことがきっかけだった。

 母国アルゼンチンでは、タンゴや音楽が日々の暮らし、さらにはターミナルケアを行う高齢者施設などにも浸透しているという。日系人と結婚し、19歳で来日して以来、「社会のルール」や「大人としての作法」を学び、息子3人を生み育てた日本。「少しでも人々の幸せにつながることをしたい」と、行動に移した。

 カロリーナさんは、ダンスパートナーのエンリケ・モラレス(Enrique Morales)さん(35)夫妻と3人で協会を立ち上げると、エンリケさんの義理の祖母が入所する介護施設で最初のセラピーを始めた。

 引きこもっていた入所者が自室から出てくるようになるなど、次第に効果が見て取れた。現在は、都内を中心に愛知県や奈良県などの施設でセラピーを展開、タンゴセラピーボランティアの養成にも力を注いでいる。

横並びで手をつなぎ、体を左右に傾けバランスを取り合う参加者(2018年6月23日撮影)。(c)AFPBB News/Yoko Akiyoshi

■ダンス教師から介護職へ

 協会を運営するスタッフの中には、ダンスインストラクターから介護職へ転身した人もいる。介護職員の中川健一郎(Kenichiro Nakagawa)さん(41)は、元ボランティア。タンゴ初心者の人たちが打ち解けていく様子は、フランスで初めてタンゴのパーティーに参加した時の感触に似ていると感じた。

 年齢も人種も異なる人たちが代わる代わる踊りながら、穏やかな温かい雰囲気の中で過ごしている。「こういう小さなコミュニティーの平和をたくさんつくりたい」。帰国後すぐにタンゴを習い始め、次第にセラピー活動にのめり込むようになった。「もっと高齢者のことを理解したい」と、3年前に介護の仕事に就いた。

「タンゴはコミュニケーションの要素が強い。相手と通じている感覚がある」と中川さん。「ほかのセラピーでも運動機能の回復は期待できるだろう」としながらも、タンゴはセラピーとして理にかなっていると考えている。

「パートナーを代えると、また違う動きを引き出してくれる。言葉を交わしていないのに、会話をしているような感じ」。水野記念病院でタンゴセラピーを導入した脳神経外科部長の下田仁恵(Masae Shimoda)医師(54)も、最初は気恥ずかしさを感じたが、踊るうちに気持ちの変化を感じた。

 胸と胸、頬と頬がつきそうなほど接近した組み方ゆえに、足腰がふらついても安定感がある一方、「ペアの相手が夫でも嫌」「知らない人でも恥ずかしい」と抵抗を示す人も少なくない。同病院でも、参加者を募るにはまだハードルがあるという意見もあるが、2回目以降の参加者には変化も見られる。

 入院前と同じように外見や立ち姿に気を配るようになったり、女性は再び口紅を引いたり。「わくわく」した気持ちがリハビリを続けていく上で欠かせないモチベーションになっている。

タンゴを披露するカロリーナ・アルベリシ(中央左)さんと中川健一郎さん(2018年6月23日撮影)。(c)AFPBB News/Yoko Akiyoshi

■暮らしやすい日本、でも心も豊か?

 エンリケさんと共に数々のショーに出演し、昨年のタンゴ世界選手権優勝者を指導した国内随一のダンサーであるカロリーナさんがセラピー活動の目標とすることは、体のリハビリだけではない「心のサポート」だ。

「日本は豊かで暮らしやすく、基本的に正しいこと良いことをしたいという人が多い。でも自分を出す場所が少なくて大変そう」。しかし、だからこそ、機会さえ増えれば、人と人を近づけるタンゴセラピーが広まる余地が、介護のほかにもあると期待している。

「会社や学校に行きたくなくなる前に、タンゴセラピーのことを知ってほしい。幸福や愛を求める気持ちは、国や文化が違っても同じでしょう」(c)AFPBB News

互いを支え合う安心感に包まれタンゴのステップを踏む(2018年6月23日撮影)。(c)AFPBB News/Yoko Akiyoshi