■「空飛ぶじゅうたん」

 首都ダマスカス郊外にあるJdaidet Artuzの街は、長きにわたり反体制派の拠点となっていた。ダラヤ(Daraya)に隣接するこの場所の人々も、2011年初めにシリアを駆け巡った革命の熱に動かされた。

 アルブカイさんも例外ではなかった。だが、夫婦が実際に抗議の声を上げるようになったのは、平和的な抗議に対する政府の弾圧で55人が死亡した時だった。

 そして2012年、アルブカイさんは仕事に向かう途中のバスの中で拘束された。ダマスカス近くの軍の情報施設「227」に連行され、「国民の士気を弱めた」として尋問・殴打された。

「尋問は数人同時に行われた。拷問を受けている人のすぐそばでの尋問だった」とその時の様子を説明し、目隠しをされたことにも触れた。

 さらに、施設では幅5メートル、奥行き3メートルの部屋に他の収容者70人と共に押し込まれていたと話し、睡眠を取るのはほぼ不可能だったと振り返った。部屋の狭さから、疥癬(かいせん)や下痢などの病気はあっという間に広まったという。

 この苦しい状況においてもアルブカイさんは制作への希望を捨てず、目の前の恐ろしい光景をキャンバスに描くことだけを考えた。「(フランシスコ・デ・)ゴヤ(Francisco de Goya)の絵画や(仏海軍フリゲート艦の難破から)人々が避難する様子を描いた(仏ロマン派画家テオドール・)ジェリコー(Theodore Gericault)の作品「メデューズ号の筏(The Raft of the Medusa)」になぞらえようとした」

■遺体の仮集積所に

 アルブカイさんは、拘束から約1か月後に開放された。妻のアビルさんが1200ユーロ(約15万4000円)を支払い、当局が不問に付したのだ。

 同氏はフェイスブック(Facebook)でペンネームを使い、政府軍による虐待についての投稿を続けたが、再度の拘束を恐れて目立つ行動は控えるよう努めた。しかし2014年末、レバノンへの逃亡を試みた際に国境で拘束され、再び「227」に送られた。

 内戦開始からはすでに4年近くが経過していた。そのころになると施設には死体が積み重ねられ、「部屋の壁さえも病気」になっていたという。

「227」は当時、他の軍情報センターからの死体を仮置きする「仮集積所」の役割も担っていた。収容者らは夜間に呼び出され、到着したトラックから死体を施設の地下に運び込む作業をさせられた。

 死体には頭や胸にマーカーで番号が刻印されていた。アルブカイさんは2つの番号を覚えている。「5535」と、その60日後に見た「5874」だ。