【AFP記者コラム】アレッポ最後の日々(パート1)─魂は今もそこに
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【3月6日 AFP】昨年9月(注:日本語版は翌10月)、「拘束され、両親を失っても、私はシリアを撮り続ける」というコラムを掲載した。その記事で、AFPでアレッポ(Aleppo)を担当するカラム・マスリ(Karam al-Masri)記者は、包囲されたアレッポの内情の一面を浮かび上がらせた。
今回のコラムでマスリ記者は、アレッポで過ごした痛ましい最後の日々についてつづっている。同記者が数年にわたって取り組んできた、荒廃したアレッポ取材の最終章となる。
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時折、私は目を閉じて、起きたことのすべてが悪い夢に過ぎなかったと想像したい気分に駆られる。目が覚めたら、6年前のアレッポに戻っていたら──。
カメラマンや戦争担当記者は通常、紛争取材のために前線に派遣され、任務が終われば自宅に戻る。
私は違う。地獄を生きてきたが、いまだに安らぎを知らない。現在に生きているはずが、向かっているのは未知の世界だ。
アレッポでAFPのために撮影した写真や動画はもう見るに堪えない。胸が締め付けられ、美しい思い出とつらい思い出の両方があふれてくる。
私の人生のうちのこの5年間が、頭の中にフラッシュバックしてくる。革命、反乱、戦争──私の世界は完全にひっくり返ってしまった。
ほとんど眠れない。悪夢と美しい夢とが交互に訪れる。戦前のアレッポの夢を見たかと思えば、その後は爆撃と流血の光景に切り替わる。
今暮らしているトルコ・イスタンブール(Istanbul)で夜になると、さまざまな思いにとらわれて身動きが取れなくなる。忘れられそうにない。血の一滴一滴が、記憶に永久に染みついて消えないだろう。
二度とシリアに戻らないとは考えたくもない。何もかも残してきたのだ、家も、住み慣れた土地も、アルバムも。記念の品一つ持ち出せなかった。とりわけ心残りなのは、母の墓に別れを告げられなかったこと。言いようのない郷愁を覚える。
アレッポの隣人らの疲れた顔でも見られたらと思う。私はアブ・オマル(Abu Omar)さんを覚えている。アレッポでクラシックカーを収集しており、昨年2月AFP向けに初めて撮った動画で取材させてもらった。オマルさんは育った家を離れることを拒否していた。私だって離れたくはなかった。
アレッポでは、住民らの苦悩を撮影し取材することが、生き延びる支えになってくれた。今では、私の人生がもはや意味を成さないように感じる。
アレッポ県。ガジアンテプ(Gaziantep)。イスタンブール。アレッポ市を離れれば離れるほど、私の悲しみは深まる。いつか耐えられなくなるのではないか──永遠によそ者という気がするのではないか。
アレッポで過ごした最後の1週間、私は疲れ切っていた。休む暇もなくこちらからあちらへと、避難を余儀なくされた。爆撃があろうが、同じ屋根の下にとどまりたいと思うこともあった。
寝るマットレスがないこともあった。別の場所では、毛布がなかった。私は凍えながら眠った。口にしたものといえば、一握りの傷んだナツメヤシだけだった。この地獄から抜け出したいと、緑のバス(シリア政府が住民避難措置により運行)を夢見るようになった。
アレッポで過ごした最後の1週間は、内戦開始以降で私が過ごした最悪の時期だった。イスラム過激派組織「イスラム国(IS)」に拘束された時よりもひどかった。
恐怖心しかなかった。通りに出て写真を撮る危険を冒す気にもなれなかった。大虐殺が起きていた。私はただ一つの思いに取りつかれていた──自宅か、家の前の通りで死ぬんだと。
■なけなしの品さえ失った最後の日々
不安は的中した、自宅が爆撃されたのだ。政府軍が迫り、即決処刑が行われているという話ばかり耳にした。私は逃げた──だがその前に、爆撃されている自宅周辺の様子を最後の映像として撮影することは忘れなかった。私は何もかもを置き去りにし、罪の意識にさいなまれている。
私は別の地区に身を寄せたが、爆撃は私を追い掛けてきた。カメラ2台、ノートパソコン、旅券、それにいくばくかの金だけは持ち出していたのだが、それらもすべて最後の日々で失った。とどめを刺されたのだ。
最もショックだったのはカメラを無くしたことだ。自分で買ったキヤノン(Canon)の5D Mark III。相棒であり、友だった。写真を撮ろうと通りに出る時、どこまでも私に付き合ってくれた。
最後の日々のうちのある日、私はAFPに何本か動画を送ろうと、友人宅に荷物を置いてインターネットが使える場所を探しに出た。その際、ガスヒーターからの燃料漏れというつまらない出来事が原因で火事になり、私の所持品も含め、家全体が燃えてしまった。
たった15分の間に、私の大切なカメラを失うなんて思ってもいなかった。
絶望した。これ以上生きたくないと思った。思い入れの強かった最後の品、私はそれを失ったのだ。世界で最も愛していた物を瞬時に失うなんて、予想だにしなかった。
こんな目に遭うなんて、いったい私が何をしたというのか? なぜ私には不幸が付きまとうのか? 頭をよぎるのはこの問いばかりだった。喪失に次ぐ喪失を嘆かずにはいられなかった。
私は正気の沙汰ではないことを考え始めた──ロケット弾の直撃を受けたい、そうすれば死ねる。
レバノン・ベイルートやキプロス・ニコシア(Nicosia)、フランス・パリ(Paris)のAFP記者らが支えてくれるおかげで、気持ちが上向き始めてきた。少しずつではあるが、陰鬱(いんうつ)な気分が楽になった。今後のことが話せるようになった──生きたかった。
アレッポを離れる日は、2014年にスナイパーに脚を撃たれた日に似ていた。最初の10秒間は、何も感じなかった。スナイパーから逃れるため、傷を負った脚で歩き続け、近くの建物に身を隠した。
だがその時だった、出血が始まった──痛みもだ。
アレッポも同じだった。街を出る時、私は麻薬でも与えられたかのような感覚だった。何も感じなかった。しかし翌日になって、亡命の痛みが襲ってきた。
アレッポなくして、私はどう生きていけばよいのか?
全部消え去った。私が歩んでいた人生は二度と戻ってこない。アレッポを離れたのは体だけという気がする。私の魂──それは今もそこにある。(c)AFP/Karam al-Masri
このコラムは、AFPでシリア・アレッポを担当するカラム・マスリ記者が執筆し、2017年2月8日に配信された英文記事を日本語に翻訳したものです。