【1月20日 AFP】フランスでその前の月に起きたパリ同時テロの犠牲者130人の追悼式の模様がナイジェリアのテレビで放映されてから数時間後、いつも通りの電話がかかってきた。自爆攻撃が起きたという知らせだった。私が住むナイジェリア北部カノ(Kano)の郊外で行われていたイスラム教シーア派の祭り「アシュラ(Ashura)」の行列が標的となり、死者が出ていた。

 私は現場まで約20キロの道を運転した。到着したころには、21人の遺体と数十人の負傷者はすでに別の場所へ移されていた。道路に残された血痕と肉片だけが、何が起きたかを物語っていた。

 イスラム過激派組織ボコ・ハラム(Boko Haram)が蜂起した6年前から、私はほぼすべてのボコ・ハラムの攻撃を取材してきた。

 最悪の攻撃は2009年6月の6日間にわたる戦闘で、これが彼らの攻撃の開始とされている。北東部ボルノ(Borno)州の州都マイドゥグリ(Maiduguri)は文字通り戦場と化し、政府軍と武装勢力が激しい銃撃戦を繰り広げていた。銃声や爆音が街にとどろき、静寂を取り戻したころには約800人が犠牲になっていた。ボコ・ハラムの創始者、モハメド・ユスフ(Mohammed Yusuf)も死んでいた。

 自分が数週間にわたって目にしたことによって、私はトラウマを負った。今でもその光景は鮮明だ。警察署の前にひざまずかされ、怒れる警官らによって至近距離から射殺されたボコ・ハラムの容疑者たち。トラックから降ろされた、大量の銃弾を浴びたボコ・ハラム戦闘員の死体の山──。

■忘れ去られたカノの犠牲者

 パリ同時テロの追悼式が放映された翌日には、パリと同様に120人以上が死亡、数百人が負傷したカノでの前年の事件から1年を迎えようとしていた。

 金曜礼拝が始まったばかりのモスクで、無防備な人々に向かって武装グループがアサルトライフルを乱射し、逃げ惑う群衆の中で自爆攻撃が起きた。パリの事件でイスラム過激派組織「イスラム国(IS)」が犯行声明を出したように、その攻撃はボコ・ハラム(現在はISの傘下にある)が実行した。しかしパリとは異なり、犠牲者の名前や写真が世界のテレビや新聞で報じられることはなかった。攻撃が起きた日付が、ナイジェリア国民の記憶に焼きつけられることもなかった。事実、12か月後の今もいったい何人が犠牲となったのか、私たちは正確に知らない。

 事件から1年を迎える前日、テレビがフランスの追悼式典を放映する中、街中のモスクで平和への祈りがささげられたこと以外、カノはいつもと変わらない日だった。大統領が訪れることもなかったし、現場で演奏される国歌に合わせて頭を垂れる大臣や軍関係者、救急隊員の姿もなかった。