■ジャーナリズムの師であり「ファミリー」

 話を最初に戻すと、ジャーナリストになりたがっているフランスの若者が、シャルリー・エブドでの修行を夢見るものだろうか?きっとルモンド(Le Monde)やリベラシオン(Liberation)、AFPといった報道機関を希望するのではないだろうか。

 だが、それは間違いだ。何故ならば、シャルリー・エブドのウォランスキやシャルブ、カビュー、「ティニュー(Tignous)」ことベルナール・ベラク(Bernard Verlhac)たちの存在がなかったら、今ある私はいないからだ。ロシア語とロシア史を専攻していた自分が、ジャーナリズムの世界に何とか入り込もうと必死だった姿が今でも思い浮かぶ。何のつてもなく、ただやみくもに履歴書を送っていた。

 そんなある日曜、ポンピドー・センター(Centre Pompidou)で、観客としてテレビ番組の収録に参加していたときのことだ。ゲストの一人が、シャルリー・エブドの編集者フィリペ・ヴァル(Philippe Val)だった。収録が終わると、私は勇気を出してインターンにしてもらえないかと尋ねた。「明日来なさい」と彼は答えた。

 翌日、私は編集部のドアの暗証番号「1515」(今でも覚えている)を押した。大きなテーブルに、チョコレート、そしてテーブルに足を上げていたフランソワ・カメ(Francois Came)が、何しに来たのだ、と聞いた。

 私は「あなたの仕事を取りに」と冗談で返した。

 私をジャーナリストにしてくれたのは、フランソワ・カメだ。彼が私の最初の師であり、リベラシオンにもインターンとして入れるよう助けてくれた。私はそれからフィガロ(Le Figaro)紙へ行き、AFPへ移り、ロシア、イラク、アフガニスタンなど多々の取材を経験した。リベラシオンで出会った傑出したジャーナリストのフィリペ・ランソン(Philippe Lancon)も、今回のシャルリー・エブド襲撃で負傷した。

 シャルリー・エブドの漫画家たちは、友人だったのではない。ジャーナリズムの世界での私の初めての「ファミリー」であり、決して仲が壊れることがない人たちだった。

 シャルブからは折にふれてメッセージが届いた。私があるイスラム教国で取材していたときには、必ず「アラー・アクバル」とサインがあり「それで、ひげを生やした奴らは面白いか?」と聞いてきた。