■腐敗した遺体をめぐる争い

 毎朝、バンコクにいるフィリペから「大丈夫か?」と聞かれ、「ああ、僕は大丈夫だ」と答えた。それは本当だった。それでも、聞いてくれることに感謝した。救援センターに戻ると、消息確認は混乱を増していた。行方不明者から死者への変更、亡くなったと思われる行方不明者、おそらく生きているが所在が確認できない人、すでに出国した人……。

 当局は行方不明者の写真を掲載する新たなウェブサイトを立ち上げていた。だが今回のサイトが掲載したのは、遺体の写真だ。生き残った人たちにとっては、愛する人たちを捜し出す唯一の望みだったが、遺体の顔は見分けもつかないほどはれ上がり、さらに暑さのせいで破裂寸前だった。生存者たち自身もひどい姿だった。

 何をするにしても決して泣いてはいけない。ここで苦しみに耐えているのは自分だけではないと言い聞かせた。人々の話を聞いて、現場を見て、記事を書く。自分のパソコンに向かうたびに、私は表現しようのない感情に襲われた──私はこの仕事を愛している。たとえ、この仕事がときに私に限界を超えさせても。あるいは、そのせいかもしれない。

 遺体安置所は遺体であふれ、それらを冷蔵保存する手段もなかった。身元の特定を任されたフランスの憲兵隊が到着したが、仕事を始める許可を与えられていなかった。水面下で闘いが行われていた。欧米諸国は、歯型やDNAの照合によって身元確認ができるよう遺体をできるだけ長くそのまま保存しておきたかった。だが熱帯の気候の下では、腐敗による感染症発生などのリスクが大きく、またタイの文化では遺体の焼却が求められた。すぐに何千体もの腐敗した遺体をめぐる政治的な主導権争いへと発展した。

 私は行方不明者の写真で埋まった壁へと戻った。しかし、写真を見るのが日に日につらくなっていた。日を追うごとに、彼らが生きて帰ってくる可能性は低くなっていた。

■死の世界から、生の世界へ

 9日間が過ぎ、新しいAFPの記者たちが送り込まれてきた。私はそれ以上、現地に残りたくないと思い、交代を頼んでいた。代わりの記者を送るにはコストがかかるため、通信社にとってはうれしい話ではない。だが、理解されたし、誰からも文句を言われなかった。

 カメラマンの同僚が携帯電話の電源を48時間切っていたという話も聞いた。他のジャーナリストたちにとっても、きつい現場だったのだ。

 ハノイの家に帰ると、1歳半の息子が玄関で迎えてくれた。駆け寄ってきた彼を抱きしめ、あの津波が、少なくともわが子を奪わなかったことに感謝した。私は長いこと泣いた。

 妻は私がテレビを見ることを禁じた。もうそれ以上、あの災害の写真や遺体を見ないように。死の世界から生の世界へ戻るべきときだった。現地取材が私の心身をむしばんでいた。自由を取り戻す時がきていた。(c)AFP/Didier Lauras


この記事は、AFP通信のフランスの編集長、Didier Laurasのコラムを翻訳したものです。