■2日目

 2日目、さらにAFPの同僚たちが到着した。タイ人の記者は津波で流された地元の村々を取材し、英語を話す記者は北部の壊滅したビーチへと向かった。木々に遺体が掛かっていた。

 私は市役所の中に設置された救助活動調整センターに的を絞った。手入れの行き届いた茂みに囲まれた白い建物に、旅行会社や外国大使館、各国の救援組織などが本部を置いていた。そして、そこはショックと悲しみに打ちひしがれた生存者たちが、助けを求めに来る場所だった。ある女性は行方不明の母親を、あるカップルは子供たちを捜しに来ていた。様々な人が写真やメッセージ、電話番号などを張った掲示板を皆、けわしい表情で見ていた。

 私は病院に立ち寄った。8つの冷蔵庫はすべてふさがり、遺体が1体ではなく2体ずつ保存されていた。そのほかの十数体は廊下に置かれ、簡易なシートに覆われただけで、暑さと湿気にさらされていた。

 私はもう、参り始めていた。まだ数人の遺体を見ただけだというのに。自然災害を報じるよう命じられたジャーナリストにとって、これは異常だった。同僚たちが多くの死体を目にしていると思うと罪悪感さえ湧いてきた。また古い英雄ジャーナリスト神話が頭をよぎったのだ。

 私は車で2、3時間北にあるカオラック(Khao Lak)のビーチへ向かった。そのホテルは海を囲むように立ち、一方の端がレセプションで、そこで警報が鳴ったときには遅かったという。あっという間に大波が押し寄せ、廊下を流れ去り、後に残ったのは数体の遺体とテディベア、スーツケースがいくつか、そして高さ2.5メートルの波が迫ったことを示す跡と、おぞましいほどの悪臭だった。

 海はターコイズ色に輝き、鳥はさえずっていた。地獄がここを訪れたのはほんの一瞬のようだった。ホテルのスタッフに話を聞こうとしたが、すでに多くのジャーナリストが取材をしていったことを悟った。彼らの口からは、もう言葉が出てこなかったのだ。

■自分の行動は正しかったか?

 衛星電話を使ってレポートを送った後のプーケットへの帰り道、空港に立ち寄った。多くの人が疲れ切った表情をして、放心状態でうろついていた。涙を流す若い女性。うつろな目で遠くを見つめる、ビーチサンダルを履いたバックパッカー。魂が抜けたような中年男性。一緒に帰ると思っていた人たちがいないのだ。

 彼らのところに行って話を聞かないといけない。それが私の仕事だ。それで給料をもらっている。そう思っていたとき、2人のカメラマンが彼らに駆け寄り「どんな気持ちですか?話してくれませんか?」と取材を始めた。私はそのカメラマンたちを恥ずかしく思った。胃がきりきりと痛み、誰にも話を聞かずに空港を後にした。

 私の行動は正しかったのか?あの日から10年経ち、正しい答えなどないことは分かっている。私はただ自分の直感に従ったまでだ。何でもいいから放っておいてやれ――あの人たちが十分に苦しんでいることは、見れば分かるだろう、と。