冷戦に詳しい専門家の間では、両国間の緊張関係が1962年のキューバ危機以降最悪レベルにまで高まり、その緊迫した空気が大韓航空の惨事の大きな要因となったとの見方もある。

 ニューヨーク(New York)からアラスカ(Alaska)を経由してソウル(Seoul)へと向かうフライトの最後の行程だったKAL007便に何が起きたのかについては、細かい部分で現在も見解が割れているが、同便が予定航路を外れソ連の領空に侵入したことははっきりしている。国際調査機関は、自動操縦が間違ったモードに設定されていた結果、同便が誤って領空を侵犯したと結論付けている。

 旧ソ連軍は、同便を捕捉するためにスホイ15(Su-15)戦闘機2機をスクランブル(緊急発進)させた。うち1機を操縦していたゲンナジー・オシポビッチ(Gennadi Osipovich)氏は1998年の米CNNテレビとのインタビューで当時を振り返り、捕捉した航空機が民間機かもしれないと思ったものの「考えている時間はなかった」と話している。複数のえい光弾を発射し警告したものの、反応がなかったため命令通り航空機を撃墜したという。

 乗客のうち105人が韓国人だったが、62人は米国人で、米政府の反応は恐怖と憤怒(ふんど)が入りまじったものだった。レーガン大統領は事件を「虐殺」と呼び、ソ連が「世界と、人間同士の関係を導く道徳的教えを敵に回した」と宣言する声明を発表した。

 バラク・オバマ(Barack Obama)現大統領に対しては、ロシアの支援を受けたウクライナの武装勢力によって撃墜されたとみられるマレーシア機の事件への対応が、これとは対照的に生ぬるいとの批判が出ているが、レーガン大統領の対応は非難が主で、実際の懲罰的な措置はほとんどなかった。

 1983年当時、ソ連は事件発生から5日後になってようやくKAL007便が撃墜されたことを認めたが、その後、同機がスパイ任務を遂行中だったとの公式見解を示した。