【2月28日 AFP】ウクライナ南部、黒海(Black Sea)とアゾフ海(Sea of Azov)を隔てる半島に、ロシア語話者の多いクリミア(Crimea)自治共和国はある。クリミアでは元々ウクライナからの分離独立を求める動きがしばしば見られたが、先週にウクライナのビクトル・ヤヌコビッチ(Viktor Yanukovych)大統領が失脚して以来、緊張はさらに高まっている。

 クリミアの首都シンフェロポリ(Simferopol)では26日、自治共和国政府がウクライナからの分離の議論を退けたことを受け、親ロシアのコサック(Cossack)率いる数千人のデモ隊が、ウクライナで新たに発足した暫定政権を支持するイスラム教タタール(Tatar)人の同規模の勢力とにらみ合い、小競り合いに発展。

 さらに翌27日には、親ロシアの武装集団が議会と政府庁舎を占拠。議会は、自治権拡大の是非を問う住民投票の5月25日の実施を決めるとともに、ウクライナ暫定政権を支持していた政府を解任し、政権を親ロシアの議会に移譲することを決定した。

■クリミアは「ロシアからウクライナへの贈り物」

 面積約2万7000平方キロのクリミアは、ウクライナで唯一ロシア系住民が大半を占める地域。現在の人口200万人のうち、イスラム系のタタール人は12%だ。

 クリミアには、侵攻と占領が繰り返された波瀾(はらん)万丈の歴史がある。1239年にはタタール人が占領。その後1475年にオスマントルコ(Ottoman Turks)が征服したが、1783年にはロシアが奪還した。

 ロシア革命の後、ソビエト連邦の社会主義政権が統治していたクリミアは、1954年に当時のソ連最高指導者ニキータ・フルシチョフ(Nikita Khrushchev)によってウクライナに移譲された。それ以降、クリミアは長く紛争を触発する恐れがある地域とみなされてきた。

 タタール人は、独裁者ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)によってシベリア(Siberia)や中央アジアへ追放されたが、1991年にソ連が崩壊しウクライナが独立すると、クリミアに戻ってきた。3か月に及ぶ反ヤヌコビッチ政権デモにも積極的に参加した。

 クリミアは1992年にウクライナの自治共和国となった。