【11月6日 AFP】同世代の写真家の中で最高峰と評されるスティーブ・マッカリー(Steve McCurry)氏(63)は、名声を得るきっかけとなった1984年の有名な写真の撮影時を明確に覚えている。その1枚には、真っ白な制服に金と緑のターバンを巻いたパキスタン人の給仕係2人が、走行中の列車の外側の手すりにつかまりながら、紅茶が載ったトレーを慎重に受け渡ししている姿が写っていた。

「私は窓から身を乗り出して、誰かに足を押さえてはもらっていたが『これは、一歩間違えたらえらいことになるな』と思っていた」。約30年前のある朝、パキスタンのペシャワル(Peshawar)・ラホール(Lahore)間を走る列車で遭遇した、朝食を運ぶ光景だった。食堂車と一等車を連結するドアには治安上の理由で、鍵がかけられていたのだった。

 パリでAFPのインタビューに答えたマッカリー氏は、数多くの印象深い写真を撮影してきた。この時は危険を省みても、撮る価値があると判断したという。「私はリスクを避けるよりも取る方だ。そしていつも、そうすべきだったのかどうか迷っている。けれど最悪なのは、臆病なことだと思っている。時に危険なことが分かっていても『やるしかない』こともある」

 このエピソードは、マッカリー氏の代表作と撮影にまつわるメモや手紙、さらには切符やレシートといった紙片を合わせて構成した最新刊の写真集「スティーブ・マッカリー・アントールド(Steve McCurry Untold)」の中で語られている。取材から戻ったまま、引き出しや戸棚の中に長年、置き忘れられていた様々な物の束は、そうした作品を撮る際の計画や技術の難しさを垣間見させてくれる。

「ほとんど考古学みたいなものだ。色々な物が何年も何十年もかかって、層になり、束になってたまったんだ。記事の中には登場しなかった書類や写真。発表されなかったそうした物もすべて、パズルの1ピースなんだ」

■「アフガニスタンの少女」を捜す

 キャリアを通じてマッカリー氏は世界中を旅してきたが、多くの時間を費やしたのはアフガニスタンやミャンマー、スリランカやチベットだという。

 マッカリー氏の最も有名な作品が、旧ソ連によるアフガニスタン侵攻中の1984年にパキスタン北西部の難民キャンプで撮影された「アフガニスタンの少女」であることに異論はないだろう。アフガニスタンとパキスタンの国境沿いにはキャンプが続々と出現し、多くの難民が何年もの間、そこで苦難の時を過ごしながら暮らした。マッカリー氏は84年の8月から9月にかけて、最も状況の悪かったキャンプ30か所を訪れる。

 米科学誌ナショナル・ジオグラフィック(National Geographic)の1985年6月号で表紙を飾ったこの代表作に登場する少女には、そうしたキャンプの一つに作られた学校で出会った。すぐに緑色の鋭い目をした少女に気付き、ポートレートを撮影した。「その瞬間、すべてが完璧だった。光線、背景、彼女の瞳の力」とマッカリー氏は記している。

 当初、ナショナル・ジオグラフィック誌の表紙にはこの写真ではなく、同じ少女を写した別の1枚が選ばれていた。しかし、いったんボツとなった写真にいつも目を通していた編集長は、この1枚を見た途端に目を見張った。表紙となった写真はすぐに大反響を呼び、後に読者投票で同誌史上最も高い評価を受けた。「人の顔をじっと見るのが好きなんだ」と語るマッカリー氏は、いつでもポートレート撮影に強力に引かれるという。

 2002年、少女の名前を知らないままマッカリー氏はアフガニスタンへ戻り、大人になったグーラーさんを捜し当てた。この17年の間にグーラーさんの少女時代のポートレートは、アフガニスタン難民の苦難を象徴する写真となっていたが、グーラーさんは生活が苦しく、写真への反響についても知らなかった。

 グーラーさんの家族は金銭を求めなかったが、ナショナル・ジオグラフィック誌とマッカリー氏はぜひともと援助を申し出た。その後、家族は医療を受けたり、イスラムの聖地メッカ(Mecca)への巡礼を果たしたりして、ポートレート写真の成功を分かち合った。

 こうした苦難に置かれた人々に出会い、物質的な支援を行うことも、窮状を改善することもできずに立ち去ることには、すべての写真家やジャーナリストが苦渋しているとマッカリー氏はいう。「本当にひどいことで、自分の奥深くに残る。しかし世界で何が起きているのかは、それを報道する人間を通じてでしか知ることができない。だから、われわれはとにかく『それに自分がどう貢献できるのか?』を考えるしかない。私が貢献できる方法は写真によって、人々の関心を高めることだ」(c)AFP/Helen ROWE