■写真は「あらゆる苦しみを代弁している」

   「この写真は、わたしたちが経験したあらゆる苦しみを代弁している」とウラジーミルさんは語る。「夜、気温はとても低くなった。家を暖めて生き延びるために、私たちは材木を集めなければならなかった。食べ物はコメしかなかった。狙撃手は頭上、どこにでもいた。彼らはありとあらゆるものに発砲した。子どもを撃った。ネコを撃った」

 ウラジーミルさんは学業をあきらめ、ボスニア軍に志願せざるを得ないまでに追い込まれた。何か月もの戦闘と苦しみ、へとへとに疲れる行軍が続いた。入隊から3週間で、ウラジーミルさんの体重は15キロ減った。

 ウラジーミルさんは1994年に除隊となったが、その数日後に再び招集された。このとき、ウラジーミルさんは母親とともにクロアチアを後にした。オーストリアの難民キャンプで5か月間を過ごした後、1995年4月、ついに2人は米国に向けて旅立った。

 母子はカリフォルニア州サンフランシスコ(San Francisco)の北にあるチコ(Chico)に移住した。ウラジーミルさんは現在38歳。結婚して3歳の娘を持ち、大規模な醸造所で働いている。ウラジーミルさんは一度もボスニアに帰ったことがない。

 自分の写った写真を見た衝撃が一段落すると、ウラジーミルさんはBBCのブラウン氏に連絡を取り、同氏からAFPカメラマンのバズ氏に紹介された。それまでお互いの身の上を知らなかったカメラマンと被写体は、その後電子メールを交わし、いつの日か会おうと約束した。

   「この写真が撮影された日のことはとてもよく覚えている。歩いていると、道路脇にカメラマンを見かけた。言葉を交わし、彼にタバコが欲しいと言った。それから私たちは別々の方向に去った」とウラジーミルさんは振り返る。

 現在、AFPの中東・北アフリカの写真主任を務めるバズ氏は、写真を撮影したことをあまりよく覚えていなかった。「サラエボには数日しかいなかった」とバズ氏は振り返る。「どこに行けば良いかわからなかった。前線に向かう途中、山間部で彼らに出会った。覚えているのはそれくらいだ」

 だが偶然の再会によって、バズ氏の記憶は呼び覚まされた。レバノン人のバズ氏は、内戦のまっただ中で子ども時代を過ごし、やがてAFPのために世界中の紛争地帯で写真を撮影するようになった。

   「私の人生の中で、特に重要な紛争は2つある」とバズ氏は語る。「1つはソマリア。身につけている腕時計のためだけに殺されるような国だ――腕時計をよこせと言われることもなく、あいつらはただ殺すんだ。そしてもう1つはサラエボだ」

 1992年秋、バズ氏とAFP記者パトリック・ラヒール(Patrick Rahir)氏は、AFPが紛争取材のために調達した装甲車に乗り、パリ(Paris)からサラエボに到着した。