【4月1日 AFP】フィルムノワールの傑作を多数残した米国のジュールス・ダッシン(Jules Dassin)監督が3月31日、ギリシャのアテネ(Athens)で亡くなった。96歳だった。

 米コネティカット州(Connecticut)ミドルタウン(Middletown)で1911年に生まれたダッシン監督は40年代、その革新的な手法により、若手監督の中で抜きんでた存在となった。47年には『真昼の暴動(Brute Force)』、48年には『裸の町(Naked City)』といった作品を発表している。

 しかし、揺るぎない信念を持った活発な共産党員だったことから49年、いわゆる「赤狩り」の犠牲となり、ハリウッドを追われヨーロッパに亡命。最初の亡命先となった英国では、米俳優リチャード・ウィドマーク(Richard Widmark)主演『街の野獣(Night and the City)』を発表、これがのちにフィルムノワールの名作と呼ばれるようになる。

 フランスに移ってからは、オーギュスト・ル・ブルトン(Auguste le Breton)原作の『男の争い(RififiDu rififi chez les hommes)』を55年に発表。音楽もせりふも一切ない32分間にわたる銀行強盗シーンがあまりにもリアルだったため、犯罪予備軍に参考にされることを恐れた仏警察が一時、上映を禁止したといわれる。

■ギリシャ永住を決めたメルクーリとの出会い

 57年にはギリシャで、文豪ニコス・カザンツァキス(Nikos Kazantzakis)の小説を下敷きにした『宿命(He Who Must DieCelui Qui Doit Mourir)』を発表。以後、ある出会いをきっかけに、亡くなるまでギリシャに住むこととなる。

 60年の『日曜はダメよ(Never on Sunday)』では、音楽を担当したマノス・ハジダキス(Manos Hadjidakis)がアカデミー賞を獲得した。ダッシン氏も監督賞と脚本賞でノミネートされたが、受賞には至らなかった。だが『日曜はダメよ』で最も重要なエピソードは、ギリシャのナンバーワン女優、メリナ・メルクーリ(Melina Mercouri)を主演に迎えたことだろう。

 ピーター・ユスティノフ(Peter Ustinov)がアカデミー助演男優賞を受賞し、ダッシン監督の代表作となった『トプカピ(Topkapi)』から2年後の66年、監督はメルクーリと結婚したのである。

■パルテノン彫刻返還運動で市民権

 結婚後、ふたりは急進的な活動で知られるようになる。67-74年のギリシャ軍政下では、レジスタンス活動の組織化に尽力した。

 メルクーリは女優を引退後、政界に進出。80年代には文化相になり、19世紀にギリシャから奪われ、現在はロンドンの大英博物館(British Museum)に収蔵されているパルテノン神殿の大理石彫刻群の返還運動に生涯をかけた。この運動にダッシン監督も助力し、返還に向け、メルクーリの名前を冠した財団も設立した。

 メルクーリは94年に死去。その3年後、ダッシン監督は返還運動への協力をたたえてギリシャから名誉市民権を与えられた。

 監督は78年、『女の叫び(A Dream of Passion)』でカンヌ国際映画祭(Cannes Film Festival)の最高賞、パルム・ドールを受賞。

 晩年も、高齢と健康の衰えにもかかわらず政治への興味を失うことはなかった。(c)AFP/John Hadoulis