和久田哲也シェフ、成功への「レシピ」は自由と情熱 - オーストラリア
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【シドニー/オーストラリア 10日 AFP】高級レストラン「Tetsuya’s」をシドニー(Sydney)で展開する和久田哲也シェフは、和食とフレンチを融合した独自のスタイルで、世界中のシェフから尊敬されている。
世界トップレベルとの評価を頻繁に受け、常に予約でいっぱいのレストランだが、謙虚な和久田シェフは、その理由を常に自身に問いかける。しかし、これまでの足跡をたどれば、その理由が明らかになるだろう。
食に賭ける情熱とオーストラリアの自由な食文化が、若き日本人を料理界の最高峰に押し上げた。
成功の理由を問われると、「とても幸運だった。世界中には数多くの素晴らしいシェフやレストランが存在する」と控えめに語る。
フランス料理界の重鎮であるポール・ボキューズ(Paul Bocuse)が前月、81歳の誕生日を祝い料理界のエリートをモナコに招いたときも、和久田シェフはそこにいた。2006年には、「Restaurant magazine」誌の世界料理人番付ベスト50で5位にランクイン。アジアンの味覚とフレンチの技術を融合させた上品な料理が高く評価された。
■料理は「生活の一部」で「天職」
プライベートオフィスにステンレス製の調理台や、すしの「げた」、業務用コンロを置く人物は、あまりいないだろう。だが和久田シェフの場合は、それだけではない。レストランの上階に実験用キッチンを2つ構えている。
「料理は生活の一部で、団らんやくつろぎのスペースはほとんどない」とシェフ自身も認める。
和久田シェフは浜松出身で、幼いころの夢は「鉄砲職人」。25年前、オーストラリアに渡り、皿洗いとして働き始めた。当時はまだ、オーストラリアでも「すし」が知られていない時代。国内有数のシェフ、Tony Bilsonが生魚をメニューに加えようと決めたとき、そこで和久田シェフは芽吹いたばかりの日本食を担当した。
Bilsonのもとで働きながら、和久田シェフは古典的なフレンチの技法を学び、自身の料理に取り入れた。当時、料理こそ「天職」と気づいたものの、1983年に「Ultimo’s」を開店するまで、自分が料理人になったとの実感はなかったという。
「本当に楽しかった。自分の店を持つと、もう誰も教えてはくれない。だから自分で学ぶしかなかった」
■「自由」なオーストラリアで料理スタイルが開花
和久田シェフは1980年代に食文化の革命が起こったオーストラリアでなければ、自分の料理スタイルを開花させることはできなかったという。
オーストラリアでは数十年前まで、マトン料理が中心だった。戦後に欧州やアジアから多くの移民が流入したことで、食文化が多様化。これまでは、「独自の食文化がない」とされてきたが、地元農産物と各国の食の要素が融合、発展し、シドニーやメルボルン(Melbourne)、アデレード(Adelaide)は世界中の食通の注目を集める都市となった。
和久田シェフは、オーストラリアの料理界を一言で説明すると、「自由」という。
「ほかの国では、独創的過ぎることをやると『それは○○じゃない』といった批判を受けるが、ここではそれはない。オーストラリアは国としても若く、数世紀にわたる食の歴史もない。各国の料理には、やっていいこと、いけないことの決まりがあるが、この国にはない。だからこそ、本当に面白い料理が生まれるのだろう」
写真は2月16日、シドニーのレストラン「Tetsuya」で笑顔をみせる和久田シェフ。(c)AFP/Anoek DE GROOT
世界トップレベルとの評価を頻繁に受け、常に予約でいっぱいのレストランだが、謙虚な和久田シェフは、その理由を常に自身に問いかける。しかし、これまでの足跡をたどれば、その理由が明らかになるだろう。
食に賭ける情熱とオーストラリアの自由な食文化が、若き日本人を料理界の最高峰に押し上げた。
成功の理由を問われると、「とても幸運だった。世界中には数多くの素晴らしいシェフやレストランが存在する」と控えめに語る。
フランス料理界の重鎮であるポール・ボキューズ(Paul Bocuse)が前月、81歳の誕生日を祝い料理界のエリートをモナコに招いたときも、和久田シェフはそこにいた。2006年には、「Restaurant magazine」誌の世界料理人番付ベスト50で5位にランクイン。アジアンの味覚とフレンチの技術を融合させた上品な料理が高く評価された。
■料理は「生活の一部」で「天職」
プライベートオフィスにステンレス製の調理台や、すしの「げた」、業務用コンロを置く人物は、あまりいないだろう。だが和久田シェフの場合は、それだけではない。レストランの上階に実験用キッチンを2つ構えている。
「料理は生活の一部で、団らんやくつろぎのスペースはほとんどない」とシェフ自身も認める。
和久田シェフは浜松出身で、幼いころの夢は「鉄砲職人」。25年前、オーストラリアに渡り、皿洗いとして働き始めた。当時はまだ、オーストラリアでも「すし」が知られていない時代。国内有数のシェフ、Tony Bilsonが生魚をメニューに加えようと決めたとき、そこで和久田シェフは芽吹いたばかりの日本食を担当した。
Bilsonのもとで働きながら、和久田シェフは古典的なフレンチの技法を学び、自身の料理に取り入れた。当時、料理こそ「天職」と気づいたものの、1983年に「Ultimo’s」を開店するまで、自分が料理人になったとの実感はなかったという。
「本当に楽しかった。自分の店を持つと、もう誰も教えてはくれない。だから自分で学ぶしかなかった」
■「自由」なオーストラリアで料理スタイルが開花
和久田シェフは1980年代に食文化の革命が起こったオーストラリアでなければ、自分の料理スタイルを開花させることはできなかったという。
オーストラリアでは数十年前まで、マトン料理が中心だった。戦後に欧州やアジアから多くの移民が流入したことで、食文化が多様化。これまでは、「独自の食文化がない」とされてきたが、地元農産物と各国の食の要素が融合、発展し、シドニーやメルボルン(Melbourne)、アデレード(Adelaide)は世界中の食通の注目を集める都市となった。
和久田シェフは、オーストラリアの料理界を一言で説明すると、「自由」という。
「ほかの国では、独創的過ぎることをやると『それは○○じゃない』といった批判を受けるが、ここではそれはない。オーストラリアは国としても若く、数世紀にわたる食の歴史もない。各国の料理には、やっていいこと、いけないことの決まりがあるが、この国にはない。だからこそ、本当に面白い料理が生まれるのだろう」
写真は2月16日、シドニーのレストラン「Tetsuya」で笑顔をみせる和久田シェフ。(c)AFP/Anoek DE GROOT