■偽の人生の「記憶」

 オランダから国外退去させられた後、チェルカソフはブラジルで昨年、経歴詐称の罪で禁錮刑に処された。ロシア政府はチェルカソフが指名手配されている麻薬密売人だとして、引き渡しを求めている。

 3月に公開されたチェルカソフの米国での起訴状には、スパイが新しい人生を歩むために暗記しなければならない、「レジェンド」と呼ばれる偽の経歴書も含まれていた。

 4ページにわたる「レジェンド」には、チェルカソフの「親族」の複雑な歴史が記されている。親族はほぼ全員が死亡しており、多様な国の出身という設定になっている。なぜチェルカソフの顔がゲルマン系なのか、なぜ完璧なポルトガル語を話せないのか、なぜ親族と交流がないのかなどの理由を説明している。

「白髪のおばは小柄で、優しい目をしていた。手は柔らかかった。ポルトガル語が下手で、いくつかのスペイン語を教えてくれた」「港の近くに家があり、港に干されていた魚のにおいが嫌いだった。魚が嫌いなのはこのせいだと思う」

■米国の機密情報がすぐそこに

 訴状によると、チェルカソフは2010年にこの「経歴」と共にブラジルにやってきた。

 旅行代理店で働いた後、アイルランドのトリニティ・カレッジ・ダブリン(Trinity College Dublin、ダブリン大学)で2014〜18年、政治学を学び、米大学院の受験資格を得た。

 ロシアのGRUはSAISの学費12万ドル(約1600万円)を負担したが、それ以上の見返りが望めた。米政府高官の多くは同校の卒業生で、学生にはさまざまな機会が与えられる。

 例えば、チェルカソフは学校が企画したイスラエル旅行に参加し、そこで米国とイスラエルの安保当局者と交流している。

 ロシアによるウクライナ侵攻の懸念が高まっていた2021年末には、SAISの専門家らは米政府に助言を行っていたが、チェルカソフはこれをハンドラーに報告していた。

■あぜんとするほど無能

 チェルカソフは2022年2月、就職先のオランダに向かう前に恋人にハンドラーから結婚の許可をもらえていないとメッセージを送っていた。恋人の女性は「欧州に着いたらすぐこの話を進めて」と返事をしている。

 また、ブラジル当局に勤めている知人に偽の書類を承認してもらい、本物の公的書類を入手し、自分の「経歴」にお墨付きを与えていたことも分かった。

 メモリースティックには、森のどこに電子機器を隠したかや、どのようにハンドラーと連絡していたかなど任務に関わる、自身の正体のヒントとなる情報も入っていた。

 元米情報当局職員で現在ワシントンの国際スパイ博物館(International Spy Museum)の館長を務めるクリス・コスタ(Chris Costa)氏は、このような機密情報をメモリースティックに保管するのは「あぜんとする」ほど無能だと指摘する。

 コスタ氏によると、最近摘発されたロシアのスパイ数百人に同様の傾向が顕著に見られる。冷戦(Cold War)中、旧ソ連の情報機関KGBは長年、スパイ技術を洗練させてきた。しかし、近年のロシアのスパイは「特にずさんなようだ」と語った。(c)AFP/Paul HANDLEY