【8月9日 AFP】5日に亡くなった世界的なファッションデザイナーの三宅一生(Issey Miyake)さんは、着心地の良いアバンギャルドなデザインでフランス・パリのファッション界に一石を投じた。生前の三宅さんは、広島で原爆投下という恐怖を体験したことが「美しさや喜び」をもたらす洋服作りの原動力になったと語っていた。

 三宅さんは、高田賢三(Kenzo Takada)さん、森英恵(Hanae Mori)さんらの先人を追い掛け、1970年代半ばに川久保玲(Rei Kawakubo)さん、山本耀司(Yohji Yamamoto)さんらと共にパリで一躍成功した若手日本人デザイナーの一人となった。

 三宅さんは半世紀を超える国際的なキャリアを通して、ファッションデザインを「ものづくり」と呼び、先端技術を使った、着心地の良い洋服を開発してきた。一方、仰々しいオートクチュールからは距離を取った。

 自身の名前を冠したブランド「イッセイミヤケ」の「プリーツプリーズ(Pleats Please)」シリーズでは、パーマネントプリーツ加工が施され、しわにならない洋服を開発した。

 近未来的な三角形から成る「バオバオ(Bao Bao)」シリーズのバッグは、シックな衣装を引き立たせると好評を博し、多数のコピー商品が出回るほどだった。また、アップル(Apple)の共同創業者スティーブ・ジョブズ(Steve Jobs)氏のために100着以上の黒いタートルネックを製作したことでも知られる。

■広島で被爆

 1938年に広島市に生まれ、7歳の時に米国が投下した原爆により、身近な物の多くが消し去られるという体験をした。

 被爆の影響で、生涯にわたり足を引きずることになったが、自身のトラウマについて話すことはまれだった。2009年には沈黙を破り、米主要紙ニューヨーク・タイムズ(New York Times)に寄稿し、核軍縮を訴えた。

「目を閉じれば、誰もが決して経験すべきではないもの──赤い閃光(せんこう)、直後の黒い雲、必死に逃げようとあらゆる方向に走る人々がいまだに見える」とつづった。「全て覚えている。被爆した母は、3年もたたずに亡くなった」

 多摩美術大学(Tama Art University)卒業後、1965年にパリに移ると、新人デザイナーとして、ギ・ラロッシュ(Guy Laroche)やジバンシィ(Givenchy)などで働いた。同時に、学生運動に端を発した68年の「五月革命」にも影響を受けたという。

 2016年の米CNNのインタビューで三宅さんは、抗議デモがパリをのみ込むのを目の当たりにし、「世界は一握りのためのオートクチュールの需要を離れ、ジーンズやTシャツなど、シンプルでより万能な要素に向かっている」と気付いたと語った。

 20世紀の終わりにパリコレのデザイン業務から身を引いた三宅さんは、複数の若手デザイナーに飛躍の機会を与えた。

 しかしコレクションの監修は続け、テクノロジーへの情熱は持ち続けた。全てのショーで、生地からステッチまで詳細に指示するなどのこだわりを捨てなかった。(c)AFP/Rene SLAMA / Katie Forster