漢魏洛陽故城で新たな宮殿区画を発見 河南省
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【1月30日 Xinhua News】中国河南省(Henan)にある漢魏洛陽故城遺跡ではここ2年近く、宮城区の発掘調査が行われており、中国最初の「建中立極(単一宮殿)」様式の宮城正殿とされる北魏の太極殿に続く新たな発見がこのほど明らかになった。顕陽殿や顕陽殿宮院(宮院は宮殿と付属建築による一つの区画を指す)、永巷などの遺構の位置や形状、保存状態が判明し、北に皇帝の私的な生活空間、南に公的な空間を置く「前朝後寝」様式の配置に対する理解がより深まった。
発掘調査の責任者を務める中国社会科学院考古研究所の劉濤(Liu Tao)副研究員は「太極殿が『大朝』で、その真北にある顕陽殿が『内朝』だった」と説明。漢魏洛陽城の宮城の「前朝後寝」式配置は魏晋時代に形成され、北魏が洛陽に遷都した後も引き継がれたとし「(少数民族国家である北魏による中原王朝に対する)制度の踏襲と文化の容認と見ることができ、統一多民族国家の形成過程を真に体現している」と語った。
文献の記録によると、顕陽殿は曹魏時代に造営され、当時は昭陽殿と呼ばれた。その後の西晋時代にも使用され、北魏時代に改築された。同時期に造営された太極殿とともに宮城の中軸線上に位置し、宮城に中で重要な地位を占めた。
最新の発掘調査により、版築(はんちく)と呼ばれる土を突き固める方式で造られた顕陽殿の基壇の平面は凸字形で、東西約70メートル、南北約35メートルだと分かった。基壇南側の残存部の高さは約1メートルで、外側には基壇の表面を覆っていたれんがやれんが造りの溝などの一部が残されていた。
劉氏は「顕陽殿の基壇周辺には、回廊や排房(同じ方向に並んだ家屋)、水道などの遺構が多数あり、顕陽殿を中心とした宮院建築を構成していた」と説明した。
これまでの発掘成果に基づく復元によると、顕陽殿宮院は東西の幅約80メートル、南北の奥行き約130メートルで、顕陽殿の基壇は中央の北寄りに位置する。宮院の南側には太極殿宮院につながる門の遺構があり、東西両側には2本の回廊、北側には大規模な回廊と排房が設けられ、比較的閉鎖された建築空間を形成していた。
顕陽殿宮院の東西にはそれぞれ別の宮院があることも分かった。三つの宮院を合わせた東西の幅は約370メートルで、太極殿宮院と同じ幅だった。
顕陽殿宮院の北側では、東西方向に走る幅約6メートルの道も見つかった。西端は宮城の千秋門につながっており、宮城に入った後は数回角を曲がり、最終的に東壁の宮門から外に出られるようになっていた。専門家はこの道が文献の記載にある「永巷」ではないかと推測する。
永巷は魏晋時代と北魏時代の宮城の東西を貫く唯一の道で、敷地の機能配置の境界線としての役割も担った。永巷より南は太極殿を中心とする宮殿区画、北は主に華林園を中心とする景観区画となっていた。
劉氏は「新たな発掘調査と研究成果により、顕陽殿宮院と付属建築の構造が具体的に明らかになった。宮城内の建物の配置や特徴もより明確になった。宮城の形状と配置、機能ごとの区画分け、時代の変化に対する理解をさらに深める助けになる」と述べた。
漢魏洛陽故城遺跡は中国の第1次全国重点文物保護単位(国宝・重要文化財に相当)に指定されている。西周時代に造営されて以降、各王朝が1500年にわたって使用した。都城としての期間は600年に及び、豊かな歴史的・文化的内容を備えている。遺跡では中国社会科学院考古研究所の漢魏洛陽城チームが1962年に発掘と保護を開始して以降、60年にわたり作業が続けられている。(c)Xinhua News/AFPBB News