■冷遇されたスーパースター、ジェシー・オーエンス:陸上(米国)

 1936年ベルリン大会。ゲルマン民族の優位性を唱えるナチス・ドイツ(Nazi)の指導者アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)の眼前で、アフリカ系米国人のジェシー・オーエンス(Jesse Owens)は4冠を達成した。

 この1年前、オーエンスは米国内の競技会でわずか45分の間に五つの世界記録と一つの世界タイ記録を樹立していた。

 ベルリン大会では、100メートル、200メートル、400メートルリレーと走り幅跳びで金メダルを獲得。三つの世界記録を塗り替えた。ヒトラーは怒って立ち去ったとされたが、オーエンスは後日、総統は自分に手を振ったと語っている。

 米国代表の五輪メダリストはホワイトハウス(White House)に招待されるのが恒例だったが、奴隷の子孫だったオーエンスは帰国した際、当時のフランクリン・D・ルーズベルト大統領(Franklin D. Roosevelt)に冷遇された。

「ヒトラーには握手を求められず、ホワイトハウスに招かれて大統領に握手を求められることもなかった」とオーエンスは話している。

 ベルリンには、1980年に亡くなったオーエンスの名を冠した通りと学校がある。

■女性アスリートの先駆者、フランシナ・ブランカース・クン:陸上(オランダ)

 フランシナ・ブランカース・クン(Fanny Blankers-Koen)は、2児の母となった30歳の時に1948年ロンドン大会に出場して4個の金メダルを獲得し、女性のスポーツに道を開いた。

 1936年に五輪に初出場するが、第2次世界大戦(World War II)によって2大会連続で中止になり、五輪で活躍する機会は先延ばしになった。

 だがブランカース・クンは、1948年にロンドンで五輪が再開するまで、ナチス・ドイツ占領下のアムステルダム近郊に住んでいたにもかかわらず、六つの世界記録を打ち立てていた。

 出産した女性アスリートの活躍を疑問視する向きもあったが、1948年ロンドン大会では、出場した全種目、100メートル、200メートル、80メートルハードル、400メートルリレーを制し、出産後のアスリートの運動能力を証明した。

 後にブランカース・クンは、ある男性記者に「走るには年を取り過ぎている。家で子どもの世話をするべきだ」と書かれたエピソードに触れ、ロンドン大会でその記者に「見ててごらんなさい」と言ったと語っている。

 1999年、当時の国際陸上競技連盟(IAAF、現ワールドアスレティックスWorld Athletics、世界陸連>)に今世紀を代表する女性アスリートとして表彰され、その5年後、85歳で亡くなった。