【12月13日 AFP】インドのヒマラヤ(Himalayas)山脈で最も隔絶された地域にある高地への道は、この世のものとは思えないほど美しく、圧倒されそうになる。だが経験上、完全に道に迷っているときには景色を楽しむ余裕はない。暴風雨のまっただ中で、人の気配が全くない場所であれば、なおさらだ。

ラダック連邦直轄領の行政府があるレー周辺の山脈を背景に飛行するインド空軍機(2020年6月27日撮影)。(c)AFP / Tauseef Mustafa

 私たちは危険な旅の終着点、ラダック(Ladakh)という国境地帯に近づいていた。ここは、人口は少ないが中国とパキスタンが領有権を主張する係争地で、インドと近隣諸国との間で時折、死者が出る衝突も起きている。

 私は同僚のマネー・シャルマ(Money Sharma)と一緒に、今年6月に境界線をめぐる衝突が起きた後、同地に向かった。この高地で発生した中国人民解放軍(People's Liberation Army)の部隊との衝突では、少なくともインド兵20人が死亡した。

今年6月に起きた中国軍との衝突で亡くなった兵士を悼む遺族。(c)AFP / Narinder Nanu

 詳細はいまだにはっきりしておらず、衝突による中国側の死傷者数は数か月後も不明なままだ。だが、あの衝突以降、双方とも国境地帯に数千人規模の増援部隊と大型兵器を配備しており、境界線越しに高まった緊張は完全には沈静化していない。

 私たちの朝はシンクラ(Shinku La)峠に向かう険しい登り坂で始まった。この峠は標高5100メートル近くあり、当日の出発地点である小村キーロン(Keylong)のほぼ2倍の高度があった。起伏の激しい山道は何世紀も前から、ヒマチャルプラデシュ(Himachal Pradesh)州から陸路で南に向かう貿易商人や旅人にとっては、国境地帯に行く主要なルートだ。

インド辺境のラホールスピッティ地区にある小さな宿場町、キーロンの夕暮れ。私たちはここのさびれたホテルに滞在した。(c)AFP / Bhuvan Bagga

 私たちが携えているのは大ざっぱな地図1枚だったが、それを描いてくれた親切な若者が一生懸命話してくれたのは、私たちが目指しているチーカ(Chhika)への道はとても迷いやすいということだった。その言葉は正しかった。

 予定から何時間も遅れてやっと到着したときには、雨は土砂降りとなり、気温は15度を下回っていた。欧州の基準ではなんということもないのだろうが、私の出身地ニューデリーに比べると、歯ががたがた鳴るほど寒い。村に下りて行くまでの間、さらに追い打ちを掛けるように、服がびしょぬれになり、山腹を削って造られた狭い階段は滑った。

 チーカは「村」と言えるほどの規模ではなく、実際は祈祷(きとう)旗で飾られた石造りの家がせいぜい8、9軒ある集落にすぎない。ヒマラヤのこの辺りは、インドの平原よりもずっとチベットに近く、人口の80%がヒンズー教徒であるインドでは、仏教の小さなとりでの一つとなっている。私たちは見るからによそ者だったが、高齢の男性が家から飛び出して来て、見知らぬ人に久しぶりに出会ったとき特有のはしゃぎ方で、喜びをいっぱいに表して私たちを出迎えてくれた。

(c)AFP

 この男性の関心は、私たちが何者でどこから来たかということよりも、どうやって旅をしてきたのかという点にあった。キーロンの村からこの家の戸口までの移動時間は、新しい道路のおかげで、わずか数年前に比べると大幅に短縮されていたのだ。男性の話では、以前に病気になったときは最寄りの村まで徒歩で1日かけて行っていたが、今はわずか30分で行けるようになったという。

 インド極北の風光明媚(めいび)な山の景色は、チーカのような村落と、デリー(Delhi)とその先に広がる低地の平原との間の緩衝地の役割を果たしている。この地域を走る車道2本のうちの1本であるロータン・パス(Rohtang Pass)は、地元では「死体の原」として知られているが、その名の由来は、ここを越えようとして命を落とす人が多かったことにある。この地域の住民の大半は短い夏の間は根菜を栽培し、長い冬の間は家の中にこもってつつましい生活を送っている。

 だがチーカへの道路は、隔絶されたこうした暮らしが間もなく過去のものになることを示している。インドの指導者らは、境界線の向こうの中国側で大規模な開発が進められていることに戦々恐々とし、軍が配備されている境界線沿いでは緊張が高まっている。同地域への交通の便を良くすることは長い間、戦略上必要な措置と見なされてきた。

ヒマチャルプラデシュ州シムラの街の屋根。(c)AFP / Str

 私たちは前日、インド政府の新たな政策の成果をキーロンまでのドライブの間に目にしていた。完成までに10年を要した新ロータン・トンネル(Rohtang Tunnel)は全長9キロで、標高約3000メートルを超える高地では世界最長を誇る。このトンネルにより、一番近いヒマラヤの大きな町までの移動時間は8時間から1時間半に短縮された。トンネルの正式開通は10月にナレンドラ・モディ(Narendra Modi)首相の立ち会いの下で行われたが、モディ首相は6月に国境地帯で死者が出る衝突が発生した際は、中国を強く非難した。

ヒマチャルプラデシュ州ソラン近郊のアタル・ロータン・トンネル内でドライバーを歓迎するメッセージを表示する電光掲示板。(c)AFP / Money Sharma

 アタル・トンネル(Atal Tunnel)は土木工学の結晶とも言える構造物で、氷点下まで気温が下がることも多い低酸素の環境の下、地滑りの起きやすい丘陵で建設された。トンネル事業の責任者、パリクシット・メハラ(Parikshit Mehra)大佐は私たちの取材に対し、工事が成功したのも、大勢の作業員に温かい食事を調達するという後方支援上の難題が克服されたおかげだとし、「あの食事は、他の何ものよりも士気高揚につながった」と話した。

 メハラ氏は軍人で、トンネル事業は明らかに軍事的理由で発案されたものだ。今後は、インドと近隣諸国との間で衝突が起きれば、数千人の部隊がラダックに直ちに集結することができる。

 だがヒマラヤのこの辺ぴな地域の人々は皆、新たな幹線道路でもたらされると思われるプラスの変化を嬉々として語った。観光客が増え、経済的恩恵を受け、医療も向上し、地元の雇用が増加する、などだ。

カシミール渓谷とラダックを結ぶカラコルム山脈の幹線道路を掘削機で走行する男性。(c)AFP / Tauseef Mustafa
北部ヒマチャルプラデシュ州でヤクにすきを引かせて畑を耕すインドの村民。(c)AFP / Xavier Galiana

「これまでは自分が知っている暮らしがすべてだったが、今はいろいろなことが変わりつつある」と、キーロンで取材した地元議員のラメシュ・クマール・ラウルバ(Ramesh Kumar Raulba)氏は言った。

「今でもよく覚えているが、以前は地元住民は遠くの町から所持品を馬で運び、この山々を越えていた。途上で危ない目に遭い、命を落とすことも多かった」と同氏は話し、今のような状況は想像もできなかったと続けた。

北部ヒマチャルプラデシュ州のスピッティ川の岸で、2頭のヒツジを解体するインド人男性(2018年7月7日撮影)。(c)AFP / Xavier Galiana

 静かで穏やかな高山の空気の中で何日か過ごした後にニューデリーに帰るのは、気乗りしなかった。私を含め、2200万人が住むニューデリーは昨年、大気汚染が深刻化し、20メートル先が見えない状態が1週間続いた。どこもかしこも人であふれ、自然はなく、静けさと孤独を味わえる機会もほとんどない。

(c)AFP / Tauseef Mustafa

 絵はがきのようなヒマラヤの景色を眺め、新鮮な空気を吸い込んでいると、この環境の美しさを称賛せずにはいられなかったが、同時に、今起きている変化が、この後どんなことをもたらすのか案じずにはいられなかった。今度この場所を通り過ぎるときは、ここだとすぐには分からないかもしれない。

北部ヒマチャルプラデシュ州スピッティ渓谷のコミックで、日が沈む様子をTnagyud Gompa修道院から見つめるインド人の仏僧。(c)AFP / Xavier Galiana

このコラムは、記者ブバン・バッガ(Bhuvan Bagga)が執筆、香港のショーン・グリーソン(Sean Gleeson)が編集し、2020年10月23日に配信された英文記事を日本語に翻訳したものです。