■国際社会の沈黙

 イランに対する化学兵器の利用は、1982年の時点ですでに始まっていた。

 だが、国連安全保障理事会(UN Security Council)がこの戦争における「化学兵器使用」に遺憾の意を表明するのは1986年になってからだった。その時でさえ、安保理はイラクの名指しの非難を避けた。そして、サルダシュトへの攻撃についても同様の言い回しでの表明がなされた。

 こうした国際社会の弱々しい反応について毒ガス攻撃の生存者らは、攻撃の共犯に等しいと断言する。だが、国連安保理の拒否権を持つ常任理事国5か国である英、中、仏、米、旧ソ連はすべてイラクを支持していた。

■「腐ったニンニク」

 イラン国境に近いサルダシュトには当時、イラク軍機による空爆が頻繁に行われていた。生存者らはこの耳をつんざくような爆発の音をしっかりと覚えていると話す。

 だが6月28日の午後、異なる4地区に投下されたガスボンベからは、いつもの恐ろしい爆発音がしなかった。

「腐ったニンニクのような臭いのする白っぽいほこりが舞い上がるのが見えた」と、ある被害者の男性は語る。その男性はそれが何かを知っていた。1984年に兵士として戦線にいたときにそれを見たことがあったのだ。

 住民らは当時、爆撃から身を守るために地下の防空壕(ごう)に逃げ込んだり、近くで安全を確保したりするといった行動を取るようになっていた。この時の攻撃でも同様の対応をした。

 だが、毒ガスはすぐに拡散し、防空壕の中にも入り込んでいった。

 一部の人々は何が起きているのかをすぐに理解し、身を隠していた場所から飛び出して逃げた。現在、56歳になったアリ・モハマディ(Ali Mohammadi)さんもそうした一人だ。

 数時間が経過して現場に戻ってみると、目の前には悪夢のような光景が広がっていた。「赤新月社(Red Crescent)の建物の前には、遺体が山積みとなっていた」とモハマディさんは声をつまらせながら当時を振り返った。