【記者コラム】イラクと等しい大きな影響力持つ1人の人物とその殺害
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【9月2日 AFP】イラクの地元バグダッドで、私はいつもと変わらぬ夜を過ごしていた。居間で(メッセージアプリの)ワッツアップ(WhatsApp)に次々に現れるメッセージを読んでいた。私はジャーナリストや研究者ら数十人が内部情報やうわさを交換するグループを運営しており、その日は終日、そのグループの投稿をチェックしていた。親友であり、イスラム過激派に詳しい専門家でイラク最高の政治評論家の一人、ヒシャム・ハシェミ(Hisham al-Hashemi)が、よくこのグループに割り込んできて、そこに投稿された話を解明したり否定したりしてくれていた。
その夜、私の携帯画面に彼の名前が浮かび上がった。だが本人からのメッセージではなく、彼に関することだった。
次から次へと、ワッツアップのさまざまなグループのメッセージが、ヒシャムがたった今死んだと伝えてきた。目を疑った。信じたくない。悪質な冗談、勘違いだ。イラクの悪名高い「フェイクニュース工場」の作り話だ。
だが数分もたたないうちに、内務省がこの悪夢が現実であることを確認した。ヒシャム・ハシェミ、47歳、4人の子を持ち、非常に頭が切れる研究者で、テレビのコメンテーターを務める一方、実業家や軍人に助言を与え、若い市民社会活動家らにとってはメンターのような存在で、ジャーナリストらにとっては貴重な情報源、そして私にとっては良き友である人物が、自宅前で頭に銃弾を何発も打ち込まれて暗殺されたというのだ。
当局が発表したにもかかわらず、私は自分の目で確かめたかった。車に飛び乗り、いくつかの地区を走り抜け、静かなバグダッド地区にある彼の家に向かった。
まさか今夜こんなことが。通りは制服の男性たちであふれていた。彼らを押しのけ、まばたきをして熱い涙を払いながら、彼の車を見た。運転席側の窓は粉々に砕かれ、ガラスの破片が路面上の血の海に突き刺さっている。
そのとき初めて理解した。
2019年10月、イラク現代史の転換点に戻ろう。わが国はイスラム過激派組織「イスラム国(IS)」の支配からようやく脱して2年もたたないうちに、主要な二つの同盟国であるイランと米国の勢力争いに巻き込まれていた。
だがイラクの若者は、この古くさい枠組みを拒否し、バグダッドのタハリール広場(Tahrir Square)や南部各地の街頭に繰り出し、前例のない規模の抗議運動を展開した。
若者がそこで唱えたのは、「われわれは母国が欲しい」というメッセージだった。従来の政界エリートが率いるのではなく、外部の影響をも排した、イラク国民の幸福を中心に据えた母国だ。
だが、若者がこうした願望の表明に支払うことになった代償は、誰が予想したものよりも高かった。何か月もの反政府抗議行動の間に、活動家数十人が暗殺されたのだ。
殺害は、胸の悪くなる方式を踏襲していた。バイクに乗った覆面の男らが、抗議集会を終えて会場を後にする最中か帰宅途中のデモ参加者を銃撃する。数分後には小型監視カメラの映像がメディアにリークされる。治安部隊は実行犯を必ず見つけ出すと約束する。そして……何も起こらない。
私たち多数の市民にとって、これはデジャブだ。2006年から2009年にかけてのイラク内戦と宗派間抗争の暗黒の数年間、毎週のように、政治家や聖職者、活動家、実業家が殺された。すべてのイラク国民同様、私も親類や友人、同僚、知人をこの流血沙汰で失った。こうした暴力行為が過去の遺物となることを望んでいたが、今では、近年のイラクで最悪の歴史が復活するのを私は恐れている。
ヒシャムは、大半の著名人が恐れから政府批判を控える中で公然と抗議デモを支持していた。そして最終的には若い活動家らと同じ運命をたどった。夜の暗がりの中で、一瞬のうちに命を奪われたのだ。
彼の車を見て、さまざまな思い出が一気によみがえってきた。
この車には、数え切れないほど何度もヒシャムと一緒に乗った。会合の合間にはバグダッド中を走り回った。毎回、イラクの最新情勢を議論し、たとえ、わが国にはめったに楽観的な見方はできなくても、お互いの分析を聞くのを楽しんだ。
ヒシャムはイラクを愛していた。彼の目的は一つだった。経済的・政治的な危機、そして安全保障上の危機の渦中から祖国を救うことだ。私たちはよく早朝のうちに目立たないレストランに車で出掛け、友人やジャーナリスト、専門家、政府当局者らと朝食を取り、イラクの伝統料理である牛ひき肉とトマトのオムレツ、脂漬けのそら豆の鉢を囲みながら、最新情勢を分析した。
ヒシャムは、誰も食べ終わらないうちに立ち上がり、その日に予定されている5〜6件のうちの最初の会合に元気に出掛けて行った。私たちは再び午後に落ち合い、砂糖入りの熱くて濃いお茶と水パイプの煙を吹かせながら議論を交わした。
覚えているのは、議論を始めて数分もたたないうちに、いつも何かしら中断が入ったことだ。「ヒシャム博士」と会釈して通り過ぎるイラクの人々や、最新の政治謀略の分析を問う人、当局者のトップからの電話などだ。彼は決して断らず、イラクはもっと良くなり得るのだという情報に基づいた楽観的な見方を喜んで相手に伝えていた。
今夜、彼の車で分かち合っていた希望は、無残にも悲しみと冷たい恐怖に取って代わられた。バイクに乗った3人の男が、帰宅するヒシャムを待ち伏せし、弾丸の雨を降らせて彼の車の窓を砕き、ムスタファ・カディミ(Mustafa al-Kadhemi)首相含めすべての人々から尊敬されていた人物の命を絶ち、そして平然とバイクに乗って素早く走り去ったことを知って生まれた恐怖だ。
これがヒシャムを殺したイラクだ。車内の議論で自分たちが知っていると思っていたのとは程遠いイラクだ。
彼は気配を感じていたと、私は思う。ヒシャムには友人の数と同じぐらいの敵がいた。スンニ派(Sunni)の過激派集団はヒシャムを憎悪し、彼に対し、外国政府や、IS掃討を進めた米国主導の有志連合に助言し、「カリフ制国家」の敗北後にも潜伏中のIS戦闘員を締め上げる手助けをした人物との見方をしていた。イラクの親イラン派武装集団もヒシャムを毛嫌いしていた。彼が絶えずイラク国家の強化を推進して、政府機関を支配している自分たちの勢力が一掃されるのではないかと考え、我慢ならなかったのだ。
ヒシャムは常に、イラク大統領や米大使館、英情報機関に飼われていると非難されていた。だが彼を知る相手は誰一人として、彼が断固として独立した立場にいることを疑わなかった。
ヒシャムといえば、特徴的なのは、こぼれるような笑み、くぼみのある顎、そしていたずらっぽくきらめく目だ。その目は、語っている内容よりずっと多くを知っていることを物語っていた。
自分に対する根拠のない非難や脅迫について問われると、にやりと笑って静かにこう答えた。「マクトゥーブ(maktoob)」。アラビア語で、「それはもう書かれている」という意味だ。イスラム教の信条で、私たち一人一人の宿命はすでに神によって決められており、この地上で私たちがどんなに逆らおうとしても、かなわないということを意味する。
ヒシャムは、その寛大さで有名になり、人々に愛され、尊敬された。調査研究で情報を求める若い学者らや政治戦略の助言を請う抗議活動家らには常に時間を割いた。大統領補佐官や政治家から、正体がよく分からない武装集団の戦闘員に至るまで、敵対する相手との会合にも長時間を費やした。国内外のジャーナリストからのあらゆる質問にも辛抱強く答え、イラクについての理解を深めるよう私たちを導いた。
桁違いの人脈を利用して介入や仲裁を行い、国家の後ろ盾を受けた武装集団が拘束している活動家の解放を取り付けたり、武装勢力間の対立さえも解決して流血の事態を回避したりしたことも何度もある。
イラク人であれ外国人であれ、外交官であれジャーナリストであれ、イラクについて知りたければ、まずヒシャムのことを知らなければならなかった。多くの仲間や知り合いがすでに書いているように、彼が殺害されたことで、イラクに関する調査研究や報道には巨大な空白がもたらされるはずだ。
だが、ヒシャムの不在にはそれ以上のものがある。家族と親しい友人らにとって彼は「アブ・イーサ(Abu Issa)」、長男であるイーサの父親だった(長子の名前を使ったアラビア語圏の呼称)。ヒシャムはイーサ、ムーサ、アハメドという3人の息子と娘のハディージャを持つ、子煩悩な父親だった。息子3人の名前は、イエス・キリスト(Jesus Christ)、モーゼ(Moses)、そして預言者ムハンマド(Prophet Mohammed)の呼び名から来ている。ヒシャムはバグダッド中心部の質素な家で、子どもらと妻を養うため絶え間なく働き、近所に住む自分の兄弟の面倒も見ていた。
ヒシャムに別れを告げるために家に集まった兄弟や若いおいたちは、悲しみに暮れながらも、彼が貫いた信念をほめたたえた。ヒシャムは政府内での自分のコネを利用して身内を就職させたり、厄介事から救い出したりすることを決してしなかった。世界の汚職ランキングで16番くらいにあるこの国で、自分は常に汚職とは無関係だと言っていた。
彼のこの信念は、仕事の場でよく目にした。最近の例は数か月前、バグダッドの移民事務所でのことだ。
私は偶然、1人のナイジェリア人女性と知り合った。この女性は、新型コロナウイルスの感染が広がる中、家政婦の仕事を突然、解雇され、そのために就労ビザを失った。帰国便の航空券を買うしかなかったが、数千ドルものお金はなかった。
私は、ジャーナリストや専門家らが意見交換するワッツアップのさまざまなグループやフォーラムで寄付を訴えた。それに最初に応えたのはヒシャムだった。彼は個人的なメッセージを送ってきて、後でこっそりと会いに来て札束を私に手渡してくれた。
「神は、困っている人々に分け与えられるように私たちに富を与えた」と彼はさらりと言った。
ヒシャムは、まさにそういう人物だった。私が知る限り最も優秀で、最も強い信念を持った一人で、彼の誠実さと献身ぶりに、覆面して武装したイラクの悪人たちは心底びびっていたのだ。実際、ヒシャムは彼らを脅かす張本人だった。彼らのプロパガンダのからくりを巧みに解明してみせ、治安当局が覆面集団の正体を暴くのを助けたり、イラクの透明化を目指す研究者を導いたり、破壊された祖国の未来がより自由なものになるように闘っている活動家を助けたりするたびに、ヒシャムは脅威となった。
ヒシャムが亡くなった夜の恐怖は今なお、私の中から消えない。だが、彼の殺害ほど途方もなく極悪な罪はない。殺害されたのは、イラクと等しいほどの大きさでそびえ立っていた人物なのだから。
このコラムは、AFPバグダッド支局のアマール・カリム(Ammar Karim)記者が執筆したものをマヤ・ジェベイリー(Maya Gebeily)記者が英語に翻訳し、2020年8月4日に配信された英文記事を日本語に翻訳したものです。