■連合軍が衝撃を受けた光景

 3人が生き延びたのは、第2次世界大戦(World War II)が最終局面に入ったタイミングによるものが大きかった。1944年の夏からソ連(当時)が東から進軍して、収容所を一つずつ解放していった。この赤軍がアウシュビッツ(Auschwitz)に到達したのは1945年1月だ。

 パニックと混乱は他の収容所にも広がり、ナチス指導部は敗戦後の事態を恐れ始め、一部の看守たちは、数か月前、いや数週間前にはあり得なかったような行動に出た。

 ベルガーモランさんによると、収容所の看守は、母親が産気づいたことを知ると、湯を満たした洗面器を持って来た。「周りには何人も立っていました。そこは工場で、テーブルの上だったので。プラハから来た小児科医が母のお産を手伝ったのです」

 ベルガーモランさんは生まれてから2日後に母とマウトハウゼン行きの列車に乗せられ、そこで出生を登録された。

 その旅は、4月14日から29日まで、2週間以上かかった。

 列車内で他の人々の上になって出産した人もいた。オルスキーさんもそのようにして生まれた一人だ。

 母親は、オルスキーさんが生まれた正確な日にちが分からなかったため、マウトハウゼン到着時に、看守たちの心を動かそうと、アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)の誕生日である4月20日に生まれたと伝えた。

 シュルマンさんの母親はベルゲン・ベルゼンで陣痛が起き、破水したため、女性の看守に大胆にも毛布を頼んだ。

「その女性は自分のかばんを開けてたばこの箱を一つ、母に渡したそうです。それがあれば、収容所で欲しい物は何でも手に入るだろうと言って」

 連合軍がマウトハウゼンとベルゲン・ベルゼンを解放したときに発見して衝撃を受けたのは、新聞紙に包まれたガリガリに痩せた乳幼児たちがいたこと、そして同じように栄養失調で痩せこけた母親たちがわが子に乳を飲ませようとしていたことだ。