【5月10日 AFP】「31C号棟」──ジャン・ベーメ(Jean Boehme)さん(73)が子どもの頃に住んでいた、ナチス・ドイツ(Nazi)の強制収容所だった建物の番号だ。当時通っていた学校は33号棟で、近くにあった監視塔が臨時のビストロになったことも覚えている。

 ベーメさんは75年前の4月29日に解放されたドイツ・ミュンヘン(Munich)郊外にあるダッハウ(Dachau)の元強制収容所で育った。

 ホロコースト(Holocaust、ユダヤ人大量虐殺)の物語においてダッハウ強制収容所のことはあまり知られていないが、ダッハウは戦後、別の用途で使われるようになった強制収容所の一つだ。

 連合軍、その後、新生西ドイツ政府は至る所で住宅不足に直面した。このため、強制収容所が兵舎や仮設住宅に転用されたのだった。

 フランス人の母と仏駐留ドイツ人兵士の父を持つベーメさんがダッハウの新しい家に引っ越してきたのは、5歳ぐらいの時だった。

 ドイツが第2次世界大戦(World War II)に敗れ祖国に戻ってきた父親は、息子2人を連れてダッハウに来て一緒に住むよう妻を説得した。「母は到着後に、自分たちが元強制収容所に住むことになるということを知り、かなりの衝撃を受けていた」

■ドイツ人難民

 戦後のドイツは多くの町が半壊していたため、住宅が不足していた。1933年に建設されたダッハウの元強制収容所は欧州の他の強制収容所の模範とされ、地元のバイエルン(Bavarian)州政府が使用していた。ダッハウ記念館によると、強制収容所の建物で暮らした人は1948〜65年で約2300人に上った。

 仮設住宅は主に、ドイツ第三帝国(Third Reich)の敗戦後に東欧の占領地から追い出されたドイツ人難民に提供されたが、ベーメさん一家のような特殊な場合もあった。

 元強制収容所はほぼ自給自足で運営されており、ベーメさん一家が敷地を離れることはほとんどなかった。

「学校、パン屋、青果商、バー、医者、住人に職を提供してくれた皮革工場、カトリックとプロテスタントの教会があっただけではなく、売春宿まであった」とベーメさんは語った。