■メモ代わりの絵

 2000年には米アカデミー賞(Academy Awards)名誉賞を授与されたワイダ氏だが、最初に熱中したのは映画ではなく絵画だった。美術学校で学びたいという夢が第2次世界大戦(World War II)を生き抜く助けとなったという。だが、親友のアンジェイ・ヴルブレフスキ(Andrzej Wroblewski)氏による戦時下の市民の処刑の絵を見て、進路を変えた。

 ザフファトヴィチさんは、ワイダ氏がヴルブレフスキ氏の絵を見て、自分が描くべきものは既に別の人によって描かれており、自分には絵の道は閉ざされていると悟ったのだと説明する。

 映画の世界に入ったワイダ氏だが、絵は描き続けた。カメラではなくペンで、自分の日常や撮影したいと思ったシーンを描きとめた。スケッチブックには「数日間描かないでいると、すべて忘れてしまう」との記述もみられる。

■日本人と自らを重ね合わせる

 ワイダ氏は1970年、大阪万博でポーランド文化を紹介するため初めて日本を訪れた。当時のスケッチブックには「入場者500万人、すり1人」と書かれている。

 ワイダ氏は自らと日本人を重ね合わせていた。「日本人は私が生涯大切に持ち続けたいと努めている特徴を備えている――真面目さ、責任感と高潔さ、そして伝統への欲求だ」

 ワイダ氏の映画には普遍性があり、それが日本人の琴線に触れた。1958年の作品『灰とダイヤモンド(Ashes and Diamonds)』の主人公のまねをしてサングラスをかけ、ミリタリージャケットを着る日本人男性もいた。

 ザフファトヴィチさんは、主人公は共産党幹部の暗殺を命じられたレジスタンスの闘志であり、「信義を重んじ、大義のために死ぬ覚悟ができている」悲劇の英雄である点に日本人は共感したのではないかと指摘する。これは、主君のあだ討ちをし、切腹した四十七士に通じるものがあると、ザフファトヴィチさんは言う。

 ワイダ夫婦は四十七士の墓がある寺を訪れており、ワイダ氏は墓のスケッチを残している。(c)AFP/Anna Maria Jakubek