【7月23日 CNS】中国人民解放軍(People's Liberation Army)の日本人女性兵士だった加藤昭江さんが6月12日、日本の自宅で死去した。91歳だった。新中国が誕生していく過程を見届け、日中友好活動にも長年、身をささげてきた。加藤さんを偲(しの)ぶ会が17日に東京で行われ、在日本中国大使館や中国国際友好連絡会などが「加藤さんは傑出した日本人解放軍兵士だった」と弔電を送った。

 解放軍の前身となる八路軍(Eighth Route Army)や新四軍に加わった日本兵らでつくる「日本八路軍・新四軍老戦士会」の小林陽吉事務局長が明らかした。

 加藤さんは日本八路軍・新四軍老戦士会の中心メンバーの一人。日中戦争が終結して間もない1945年11月、まだ17歳だった加藤さんは知人を通じて、遼寧省(Liaoning)で中国人民解放軍第四野戦軍の前身の一つである東北民主連軍への参加を志願した。

「加藤さんは当時、ある兵士から東北民主連軍を紹介する1冊の本をもらった。その中に革命の必要性などが書かれていた。加藤さんはあまり中国語ができなかったが、辞書を使いながら少しずつ本を読んだ」。小林さんによると、加藤さんは入隊後、中国人の同志と一緒に、日本軍敗戦後の遼東軍区管内で関東軍陸軍病院、満鉄病院、赤十字病院の接収などに従事し、その後の国共内戦では三大戦役のうち遼瀋戦役と平津戦役に参加した。

 加藤さんは解放軍と一緒に中国東北部から南西部の南寧まで徒歩で南下し、各地が解放されていく現場を目撃していった。

 加藤さんの夫、肇さんは日本人の新四軍戦士だった。2人の間には2人の娘がおり、長女の名前「延子」は、延安の解放を記念してつけた。次女は「頌子」で、「ほめたたえる」意味の「頌」に、新中国の成立をたたえる意味を込めたという。

 加藤さんはその後、中国人民大学(Renmin University of China)で学び、1958年に卒業後、日本に帰国して日中友好の促進に力を入れた。中国の発展に高い関心を持ち、「共和資財株式会社」を創立。日本と国交が結ばれていない当時から、中国との貿易、文化、医療、教育交流などを促進した。戦後の日本を代表する企業家・松下幸之助氏の中国訪問をあっせんし、北京の中日友好病院の建設にも貢献した。中日友好病院の機材などの多くは加藤さんが輸入したという。

 夫の肇さんは1991年に死去している。加藤さんは2015年に中国政府の招待を受け、「中国人民抗日戦争、反ファシズム戦争勝利70周年」の記念大会に参加した。昨年9月には山西省(Shanxi)に赴き、山西省晋中地域での看護師学校設立について中国側と協議していた。

「彼女は中国人民の古い友人であり、私たちの大先輩だ。彼女の貢献は永遠に歴史に刻まれるべきだ」と小林さん。現在存命の日本人元解放軍兵士は約10人いるという。(c)CNS-北京青年報/JCM/AFPBB News