■伝説的なスカウト

 目の大きさを際立たせる分厚い老眼鏡と、きっちりなでつけた白髪が特徴のマッドーニさんは、24年の間、パルケとボカの育成部門に携わってきた生き字引のような人物だ。ボカに入ったのは、当時の会長で、現国家元首のマウリシオ・マクリ(Mauricio Macri)大統領から個人的に誘われたからだという。

 パルケはマッドーニさんの家であり、ここでは育ててきた名選手たちと同じように神様扱いされている。クラブハウスの近くでは一歩ごとに呼び止められ、温かい抱擁を受ける。

 コートでは、オレンジ色のビブスをつけた髪の長い少年が、緑ビブスの3人をドリブルで抜き去ってゴールを決める様子をじっと見つめる。

 マッドーニさんは、若い才能のきらめきを見つけ出し、スポーツ界の宝石に磨き上げる仕事が「37歳の自分の命を救ってくれた」と話す。「離婚のショックで人生に絶望していた」マッドーニさんは、心機一転、ポーカーと競馬から足を洗って「ハンター」になった。

 きっかけは、ある選手の家族との会話だった。その選手は「チェチョ」ことセルヒオ・バティスタ(Sergio Batista)。1986年のメキシコW杯を制したアルゼンチン代表の一員だ。バティスタの父親に説得され、スカウトになると決めたマッドーニさんは、精肉店の仕事をやめてフルタイムの子どものコーチに転身。最初はマラドーナがキャリアをスタートさせたAAアルヘンティノス・ジュニアーズ(AA Argentinos Juniors)に勤め、やがてボカへ引き抜かれた。

 スペイン1部リーグのFCバルセロナ(FC Barcelona)が有する名高い下部組織「ラ・マシア(La Masia)」ほど飛び抜けてはいないかもしれないが、ボカもスカウトたちの力で40人以上の世界的なスターを輩出している。

 マッドーニさんは、自分が見いだした才能の原石にとてつもない値段が付くことに刺激を感じるそうで、「(バルセロナやビジャレアル〈Villarreal CF〉で活躍した)リケルメは8歳のときに私が見つけた。テベスを勧誘しにスラム街のフエルテ・アパチェ(Fuerte Apache)にも行った。移籍金は2万ペソ(約10万円)だったよ!」と話している。

 テベスはその後、マンチェスター・ユナイテッド(Manchester United)やユベントス(Juventus)を渡り歩いたキャリアで総額9700万ドル(約103億円)の移籍金を生み出し、中国の上海申花(Shanghai Shenhua)では世界最高額の週給を受け取っているといわれた。

 マッドーニさんいわく、金の卵を次から次へと生み出す極意はシンプルで、「子どもが良いものを持っているか、そうでないかは、ターンやボールを持ったときの動きですぐにわかる」のだそうだ。

 マッドーニさんは、教え子からプレゼントされたユニホームが何枚もかかった通路を進み、コーヒーを飲んでから、ゆっくりコートに戻ってくる。最近は風邪気味で、腎臓の手術も受けた。何しろもう77歳だ。しかしマッドーニさんの中のハンターは、まだまだ仕事に飢えている。(c)AFP/Daniel MEROLLA