【7月31日 AFP】「決勝点を決めた彼らと完全に喜びを分かち合っていた」と、AFPのフォトグラファー、ユーリ・コルテス(Yuri Cortez)は言う。コルテスは、サッカーW杯ロシア大会(2018 World Cup)で、決勝につながるゴールを決めたクロアチア選手たちの大きな喜びに文字通り包まれたカメラマンだった。

サッカーW杯ロシア大会準決勝、クロアチア対イングランド。得点を喜ぶクロアチア選手勢の下敷きになったユーリ・コルテスAFPカメラマン(中央)と、握手を交わすマリオ・マンジュキッチ(中央左、2018年7月11日撮影)。(c)AFP / Mladen ANTONOV

 53歳のコルテスは、これまでさまざまな極限状態、危険、困難な状況を経験してきた。

「もちろん、今回は違う。少しあざはできたが、危険は全く感じなかった。だから笑顔だった。紛争地域の出来事とサッカーの試合の最後に起こった出来事の違いだ」

■ロシア滞在を延長

「1次リーグが終わったら、AFPは現地でのカメラマンの数を減らすことにしていたので、私は7月4日にロシアを出発する予定だった。敗退したチームを担当しているカメラマンが第1陣で去ることになっていた。だが、今回のW杯はこれまでとは全く違っていた。本命が1次リーグで姿を消し始めた。ドイツがいなくなり、ポルトガルが敗退し、スペインも帰国した。これらのチームの担当カメラマンたちも帰国した」

「メキシコがグループリーグを生き残ったので、私のロシア滞在も延長された。私の2回目のロシア出発日は、準決勝の2戦目が終わった後の7月12日に決まった。最後まで残っていたかったが、それは不可能だった」

サッカーW杯ロシア大会準決勝、クロアチア対イングランド。コーナーキックを蹴るクロアチアのイバン・ペリシッチ(2018年7月11日撮影)。(c)AFP / Yuri Cortez

「私たちにはW杯の練習、試合などすべての取材スケジュールを管理するコーディネーターがいた。そして、試合ごとに編成されていた取材カメラマンのグループのコーディネーターもいた。私がルジニキ・スタジアム(Luzhniki Stadium)での試合を取材した時のコーディネーターは、(モスクワを拠点とするAFP特派員)ムラデン・アントノフ(Mladen Antonov)だった。スタジアムでのカメラマンのポジションを表す番号を振り分けるのはアントノフだった。私の番号は他の試合の時と同じように1番で、アントノフが私のことを信頼してくれていることを表していた」

サッカーW杯ロシア大会準決勝、クロアチア対イングランド。2点目を決めたクロアチアのマリオ・マンジュキッチ(中央、2018年7月11日撮影)。(c)AFP / Jewel Samad

「ピッチの角のポジションからは、監督と予備メンバーがいるベンチを直接見ることができる。ゴールが決まればピッチだけでなく、監督、ベンチのメンバーにも動きがある。このため、このポジションはピッチの反対側の角と共に最も重要だとされている」

サッカーW杯ロシア大会準決勝、クロアチア対イングランド。2点目を決めて喜ぶマリオ・マンジュキッチ(2018年7月11日撮影)。(c)AFP / Yuri Cortez

■ゴール!

「自分の席で写真を撮っていると、急に選手が4、5人現れた。それからベンチにいた選手など他の選手も集まり始めた。そして突然すごい力がのしかかり、柵やら椅子やら何もかもがなだれ込んできて、下敷きになっていた」

「私は倒れながらカメラのシャターを押し始めた。選手の山に埋れながらもシャッターを押し続けた。選手の顔、高揚感、感情を下からの角度で、アップで撮ることができた」

サッカーW杯ロシア大会準決勝、クロアチア対イングランド。2点目を決めて喜ぶマリオ・マンジュキッチ(左)とイバン・ペリシッチ(2018年7月11日撮影)。(c)AFP / Jewel Samad

「何が起こったか気づくと、選手たちは私に大丈夫かと聞いてくれ、とてもフレンドリーだった。このカオスの最中に私の眼鏡を拾って、頭に乗せてくれた選手もいた。それから、(ドマゴイ・)ビダ(Domagoj Vida)選手が私と握手し、ハグし、感極まってキスまでしてくれた」

サッカーW杯ロシア大会準決勝、クロアチア対イングランド。チームメートと得点を喜ぶクロアチアのマリオ・マンジュキッチ(右、2018年7月11日撮影)。(c)AFP / Yuri Cortez

(c)AFP / Yuri Cortez

(c)AFP / Yuri Cortez

(c)AFP / Yuri Cortez

■長いキャリア

 ユーリ・コルテスのAFPでのキャリアは長い。それは、エルサルバドル内戦の余波の中、始まった。「ティーンエージャーの頃に、内戦が頂点に達した。1980年代終わりから1990年代初めの和平プロセスが進んでいた時期に、カメラマンとして紛争を取材し始めた」

 コルテスは1992年にエルサルバドルを去り、ペルーに向かった。「センデロ・ルミノソ(Sendero Luminoso、極左武装集団)の絶頂期だったので、非常に難しい年だった」。自動車の爆破が続いていた。

ハイチの首都ポルトープランスで、車の割れた窓から見える警察官。ジャン・ベルトラン・アリスティド大統領が国外に逃げ、首都一帯が煙に包まれ、少なくとも10人が死亡した(2004年2月29日撮影)。(c)AFP / Yuri Cortez

「私が経験した最も強烈な出来事は、ミラフローレス(Miraflores)にある大使館の近くで起こった。レストランにいると、稲妻のようなものが目に入り、何とか同僚のカメラマンに『爆弾だ!』と言うことだけはできた。『ドカン』という音がし、爆発した。外に出て見ると、ベイルートのような光景が広がっていた」

 その後、コルテスはアフガニスタンやイラクの戦闘、第2次インティファーダ、地震、2004年のハイチなど数々のクーデターを取材した。「どこも暴力だらけだった。車両に乗っているときに、マチェーテ(山刀)、石、銃弾などで襲撃されたこともある」

「何万回もアドレナリンが大量に分泌された。その点では今回の出来事も似ている。だが、当時は命の危険があった。今回のアドレナリンの分泌とは異なる」

■考える暇はなかった

「ルジニキ(・スタジアム)での出来事は、全てがあっという間に起きた。驚きと心の高ぶりが同時にやってきた。とにかくカメラのシャッターを押して、喜びに満ちた表情を捉える、それしか考えられなかった」

サッカーW杯ロシア大会準決勝、クロアチア対イングランド。得点を喜ぶクロアチア選手勢の下敷きになったユーリ・コルテスAFPカメラマンに手を差し伸べるマリオ・マンジュキッチ(中央、2018年7月11日撮影)。(c)AFP / Yuri Cortez

■その夜、帰途に

「ファンなど多くの人たちは、選手たちと握手したり、一緒に写真を撮ったりするために何でもする事は知っている」

「その日の夜、私は帰途に就いた。空港までは1時間半だった。その時、電話がなり始め、とまらなかった。自分のフライトにチェックインするため電源を切った。再び電源を入れたときには、何百もの不在着信があった。50回かけてきた人もいた!」

「ソーシャルメディアで広がっていたようだが、私はこういうのはあまり得意ではない。好きじゃない。19歳になる娘が、自分のフェイスブック(Facebook)のアカウントが見知らぬ人(だが、彼女が私の娘だとは知っている人)からの友達リクエストでいっぱいになっていると言ってきた。AFPに言われてソーシャルメディアのアカウントを作っていたが、例えば、フェイスブックはほとんど使ったことがない。私の友達の輪は小さく、個人的なものだ」

下敷きになり…。(c)AFP / Mladen Antonov

…助け出された。(c)AFP / Jewel Samad

「決勝戦は家か、友達とレストランやバーで見ようと思っている。仕事のプレッシャーを離れて試合を見ると、雰囲気が違う」

「クロアチアに親近感を感じて、選手の見分けも少しはつくようになった。決勝戦では間違いなくクロアチアを応援する!頑張れ!!」

このコラムは2018年7月12日に配信された、AFPメキシコ支局のチーフ・フォトグラファー、ユーリ・コルテス(Yuri Cortez)のインタビューの英文記事を日本語に翻訳したものです。

サッカーW杯ロシア大会準決勝、クロアチア対イングランドで、得点を喜ぶクロアチア選手勢の下敷きになったユーリ・コルテスAFPカメラマン。メキシコの首都メキシコ市でのインタビューにて(2018年7月12日撮影)。(c)AFP / Bernardo Montoya