【9月2日 AFP】犯罪者を殺害して一掃するとの公約を掲げ、5月の大統領選で地滑り的勝利を果たしたフィリピンのロドリゴ・ドゥテルテ(Rodrigo Duterte)大統領。その公約は、南部の都市ダバオ(Davao)の市長を20年間務めた時代に、非情な治安対策を指揮した経験に裏打ちされたものだった。当時のドゥテルテ氏は、暗殺部隊を使って容疑者1000人以上を殺害したと非難された。

 警察によれば、この1か月で麻薬関連の容疑者402人が射殺された。また人権団体は、さらに数百人が自警団に殺害されたと主張している。加えて何千人もが拘束され、予算不足で過密状態の拘置所に長期間押し込まれている。

マニラのケソン市の拘置所で裁判所への移送を待つ収容者たち、2016年7月29日。(c)AFP/Noel Celis

■マニラ発「墓場シフト」

 明け方まで待つ日もあれば、早い時間帯に遺体が発見されたと連絡が入ることもある。確かなのは、首都マニラ(Manila)警察の夜の「墓場シフト」の時間帯は、その不吉な呼び名にふさわしいということだ。

 5月9日の大統領選以降、私は日中のAFPマニラ支局での仕事に加え、マニラの警察管区内で夜を過ごすようになった。

 ロドリゴ・ドゥテルテ氏は、何千人もの犯罪者を殺害すると約束して、大統領に当選した。彼の脅迫が実行に移されるならば、そのときに現場に居合わせたいと私は思った。

 選挙から数日後、警察は酔っぱらいや大人の付き添いがない子ども、上半身裸の男性たちを検挙し始め、地域レベルで夜間外出禁止令も施行した。これまでになかったことだ。

 それから数週間後、遺体の山が築かれ始めた。

 私は無線を使って、街で起きていることに関する情報を得ている。寝ているときも電源を入れたままだ。

 事件取材では警察とのコネが役立つが、私は自分のルールとして、警官と親しくなることを避けている。多くの警官がメディアに報道されることを喜び、自分が解決した事件の記事を切り抜いてデスクに飾ってあるほどだ。逮捕した窃盗犯の写真を撮影してほしいと、私にテキストメッセージを送ってきた警官もいる。

 私の無線から最初に殺人事件の情報が入って来たのは6月25日の夜で、アパートから徒歩圏内だった。警察はマニラ北部のイスラム教徒が多く住む地域のスラムを強襲し、麻薬犯罪の容疑者3人を殺害した。

 現場に到達するために、私は自分の体と18キロのカメラ機材一式、さらにノートパソコンをコンクリートの壁の穴に押し込んで、暗く長い泥だらけの小道へと抜ける必要があった。「ここで強盗に遭ったらどうしよう?」と思った。武器として使えそうな物は、懐中電灯ぐらいしか持っていなかった。カメラ2台とレンズ3つを持っていたが、うち2つのレンズはF値が小さく暗所での撮影に強い高価なものだった。

 ともあれ、私は強盗に遭うことなく現場の家にたどり着くことができた。すでにテレビ局のクルーや他のフォトグラファーたちが騒がしく集まっていた。

■容疑者の亡きがらを抱く恋人の「ピエタ」

 最も記憶に残っている事件は、7月22日に往来の激しい交差点で人力車の運転手が銃殺された一件だ。犠牲者のガールフレンドは警察の立ち入り禁止テープを越えて、死んだ恋人を抱きかかえ、助けを求めて叫んだ。その場面──ミケランジェロ(Michelangelo)の彫刻「ピエタ(Pieta)」のようだった──を撮影した写真はインターネット上で広まった。

 現場には多くのフォトグラファーがいて、シャッターを切り続けていた。人力車の運転手はその夜の3人目の犠牲者だった。彼女は「写真を撮っていないで、私たちを助けて」と叫んだ。

(c)AFP/Noel Celis

 我々は大きく動揺した。何人かは、さっと撮影をやめた。我々の多くが「なぜこんなことをやっているんだ?」と自問し始めた。我々はまるで死体にたかるハゲワシのようだった。

 我々はその夜、食べることができなかった。帰りの車中、言葉を交わせなかった。助けることができなかったことに、誰もが罪悪感を覚えていた。その後、あの現場にいた地元紙のフォトグラファーは深夜の「墓場シフト番」から外れた。

■3通りの死に方

 この麻薬戦争における死に方には、3通りのパターンがある。

 1番目はいわゆる「バイ・バスト」と呼ばれる警察のおとり捜査で、麻薬を密売していたと疑われる遺体は大抵、目の下に銃弾を撃ち込まれている。手は銃をつかもうとしているところで息絶えている。

マニラで警察により射殺された麻薬密売人とされる人物の手元に転がる拳銃、2016年7月15日。(c)AFP/Noel Celis

 かつては古い錆びたピストルを握った容疑者の遺体が見つかると、我々は目配せし合ったものだ。フィリピンの警察は長年、証拠をでっちあげることで非難されていたからだ。だが今、遺体の手が握っているのは、真新しい銃だということに我々は気付いている。

 2番目はフィリピンの街の「死の天使」、すなわちバイクに2人乗りした男たちに銃撃されて迎える死だ。目撃者や監視カメラの映像によると、彼らは大抵、ヘルメットやスカーフで顔を隠している。2人のうち1人が逃亡用のバイクを運転し、もう1人が標的に歩いて近づき、銃撃してからバイクに飛び乗って逃げていく。

 人力車の運転手を殺害したのも、バイクに乗った2人組だった。彼らはいつも自分たちの犯行の印として、タガログ語で「俺は麻薬密売人、次はお前だ」とか「俺は麻薬密売人、俺みたいになるな」と書かれた段ボールの切れ端を現場に置いていく。時にバットマンのマークを描き残すこともある。

 3番目は、謎の殺人者による死だ。銃殺あるいは刺殺された遺体が、人けがない暗い道や誰もいない駐車場に放置されている。遺体の顔、時に体全体が、エジプトのミイラのようにガムテープでぐるぐる巻きにされている。そこにも、遺体の主を麻薬密売人だと非難する段ボールの切れ端が置かれている。

 多くて18人もの遺体が発見される夜もあり、すべての写真を撮ることは物理的に不可能だ。

■地獄絵そのものの拘置所

 ドゥテルテ大統領の犯罪撲滅作戦の全容を示すために、AFPのマニラ支局は一連の取り締まりで拘束された人々に取材することを決めた。私はマニラ首都圏(Metro Manila)ケソン市(Quezon City)の拘置所を訪れることを提案した。800人収容の設計の施設だが、現在収容されている人数は4000人近い。

マニラのケソン市にある拘置所の収容者たち、2016年7月18日。(c)AFP/Noel Celis

 訪問の許可が下りるまで何週間も待たされた後、我々はようやく拘置所の中庭で開催されるダンス・コンテストの取材を許された。看守は取材班に、同じ中庭で大勢の囚人が寝ている夜のほうがもっと状況がひどいと語った。私はすぐにその写真を撮るべきだと思った。看守に夜にまた来てもいいか尋ねると、承諾してくれた。

(c)AFP/Noel Celis

 我々が目にした光景は衝撃的だった。囚人らはまるでイワシのように中庭に敷き詰められていた。監房の中も簡易ベッドとハンモックの間に、我々が通れるようなスペースはほとんどなかった。寝ている人物を起こさないと通り抜けることができない状態だった。

 あの場で暴動が起きていたら、我々は死んでいただろう。人質に取られたら、どうなっていただろうか?

マニラのケソン市にある拘置所の屋根のないバスケットボールコートで寝る収容者たち、2016年7月21日。(c)AFP/Noel Celis
マニラのケソン市にある拘置所の階段で寝る収容者たち、2016年7月18日。(c)AFP/Noel Celis

 階段で寝ている囚人たちもいた。私は窓に上り、上から彼らを撮影した。翌日の夜も再び私は舞い戻り、今度は近くの警察署の屋根に上り、拘置所を鳥瞰(ちょうかん)で撮影した。

■事件現場を撮る

 ニュース写真を撮影するフォトグラファーとして働き始めてから十数年間、夜はこうではなかった。「墓場シフト」の時間帯もニュースを追っていたのは、スラムの火事や夜中のひき逃げ事件、マニラの小型乗り合いバス「ジープニー」の深夜の乗客に対する武装強盗といった事件の速報取材に意欲的な地元ラジオ局の記者たちだけだった。

(c)AFP/Noel Celis

(c)AFP/Noel Celis

 だが今は、スーツを着たテレビ局のスター記者や外国人特派員も含め、深夜の犯罪を多くの記者たちが取材している。午後6時という宵の口に遺体が見つかることもあれば、早朝4時まで待つこともある。待機しているだけの長い時間は、狭く小さな店で脂っこい料理をつつきながら、記者同士で代わる代わる戦争取材の体験を話して過ごす。そして遺体が発見されたという情報が入ると、我々記者団は目を覚まし、文字通り一団となって車に分乗し現場へ向かう。

 この仕事で最もストレスがたまるのは、実際の犯罪現場に近付くときだ。気難しくて、フォトグラファーを入れさせない犯罪鑑識班(SOCO)の捜査官もいる。フォトグラファーを一人も現場に入れさせないことで有名な警察管区もあれば、特に鑑識班が到着するまでは、記者の取材を許す管区もある。

マニラの警察署で薬物検査を待つ容疑者、2016年6月24日。(c)AFP/Noel Celis

 大抵の場合、我々ジャーナリストにとっては、我々と鑑識班のどちらが早く現場に到着するかの競争だ。運よく先に着けば、撮影時間が30分ほどとれることもある。寛大な鑑識官ならば、銃弾や血痕、遺体の破片などを踏まないよう注意するという条件で、遺体が収容される前に黄色い立ち入り禁止テープの中に入っての撮影を許可する場合もある。

■最後に

 これまでのキャリアの中で最も地獄に近付いたのは、あの超過密状態の拘置所の取材だった。それはダンテ(Dante)の「地獄篇(Inferno)」を思わせた。もし地獄が本当にあるとすれば、あのような光景なのだろう。

 この麻薬撲滅戦争をフォトグラファーやジャーナリストとして報道する我々の仕事には、人々に衝撃を与え、今起きていることについて考えさせる力がある。人々がさらに一歩進んで、行動してくれることを願う。(c)AFP/Noel Celis

このコラムは、AFPマニラ支局のノエル・セリス(Noel Celis)カメラマンが同セシル・モレーリャ(Cecil Morella)記者と共同執筆し、2016年8月5日に配信された英文記事を日本語に翻訳したものです。