【6月7日 AFP】イタリア人宣教師のジョバンニ・バチスタ・シドッチ (Giovanni Battista Sidotti)が日本にやって来たのは、キリシタン禁制下にあった1708年。南の小さな島に上陸した際、彼は着物姿で頭にはまげを結っていた。

 上陸後、シドッチはただちに捕らえられ、後に江戸へと送られた。当時、幕府はキリスト教が日本にとって脅威になると考えていたため、収容先の施設では捕まったキリシタンらに対する拷問も日常的に行われていた。

 歴史家らによると、シドッチはその学識をもって日本の西洋観の形成に貢献したとされる。だが、当時の日本は、禁教下にあり、宣教師であったシドッチは「切支丹屋敷(Kirishitan Yashiki)」に収容された。その晩年と死についてはこれまで謎に包まれていた。

 それから300年以上が経過し、都内から出土した人骨がシドッチのものでほぼ間違いないことがDNA検査で確認された。骨は2014年7月に建設現場で見つかったものだ。

 切支丹屋敷跡から見つかったのは人骨3体分。切支丹屋敷は江戸時代にキリスト教徒を収容するために設けられた施設で、現在はマンションが立つ。遺骨が見つかった場所は駐車場になっている。

 国立科学博物館(National Museum of Nature and Science)の研究者たちは、骨のかけらを慎重に、まるでジグソーパズルのようにつなぎ合わせた。高い精度が要求される作業は半年以上に及んだ。

 国立科学博物館の人類学者、篠田謙一(Kenichi Shinoda)氏は歯のDNAを分析し、3体のうちの1体の遺伝子型が現代のイタリア人と同じであることを突き止めた。

 日本の歴史資料によると、同屋敷に収容されていたイタリア人宣教師は、シドッチとジュゼッペ・キアラ(Giuseppe Chiara)の2人しかいない。後者については、84歳で死去した後に火葬されていると歴史資料にはある。そのことからも、見つかった遺骨が1714年に47歳で死亡したシドッチのものである可能性が非常に高い。