■「彼らの証言に嘘はない」

 私は見聞きしたことに大きな衝撃を受けた。記者仲間たちの中には、彼らの話を疑う声があった。それより6年前のルーマニア革命のときに、何万人もの死体が埋められている集団墓地があるという虚偽の証言を欧米メディアが取り上げた誤報騒動の記憶がまだ新しかったからだ。だが私は、彼らの証言に嘘はないことを確信していた。

 その後、命は助かったレイプ被害者たちの世話をしている男性の取材へと向かった。自分たちの安全のためだけではなく、精神的支援のためにも、ルモンド紙の記者と一緒に取材に向かった。

 着いてみると、若い女性が前日、首をつって自殺したと聞かされた。ムスリムの女性たちにとって、レイプは心身の傷を残すだけでなく、強烈に名誉を汚されることで、その苦痛に耐えられない女性たちもいた。そこにいた若い女性たちは全員レイプの被害者だった。誰も私たちに口を開こうとはせず、私たちも無理強いしなかった。後でフランスの週刊誌が首つり自殺をしたその女性の写真を掲載したことを見つけ、私は憤慨した。このような話は、ジャーナリストとしての仕事について今一度考えさせられるものだ。

 当時、国連平和維持軍に参加していたオランダ軍は、スレブレニツァへの介入に失敗したとして激しく非難された。だが私は、生存者を助けるためにできる限りの手を尽くしたオランダ軍司令官にインタビューしたことを覚えている。彼らに評価を下すのは私の仕事ではない。とりわけ、他のどの軍も、あの虐殺を防ぐために何かができたわけではない状況で。

 トゥズラで私は大きなホテルの12階に泊まっていた。15階には、受信できるすべてのラジオやテレビがセットされた中庭があった。時々、セルビア人勢力が私たちの方角に砲撃してくると皆、中庭を囲む小さな壁の後ろで腹ばいになった。

 ほどなくして、衛生送信装置を持ってAFPのカメラマンが合流するはずだった。だが、それまでの間、トゥズラでの初日はコンピューターも電話も、記事を送信する手段もなく、紙に手書きで記事を書いていた。そこで起きたのが、三つ目の奇跡だ。

 私は書いた記事を手に、どうやって印刷すればいいか頭を悩ませながら、階段に座っていた。フランスの有名なジャーナリスト2人に電話を貸してくれと頼んだが、拒まれたばかりだった。一大ニュースだったので、メディア同士の競争も激しかった。その時、突然ヘブライ語で「おう、元気か?」という声が聞こえた。友人のイスラエル人記者だった。彼はすぐに電話を貸してくれ、私はAFPに記事を送ることができた。

 ボスニアから帰ったのは、7月23日。24日が日曜日で、25日の月曜日にはスレブレニツァでの恐ろしい記憶を頭から振り払おうと仕事に戻ったのを覚えているから、家に戻ったのは23日だったとはっきり記憶している。

 そしてこの7月25日の夕方、パリの地下鉄のサン・ミシェル(St Michel)駅でテロ攻撃が発生した。その後、フランスを揺るがした一連のテロ攻撃の最初の事件であり、私を含めAFPの記者は1995年の夏の間ずっと取材に駆け回った。