■カメラマン、オッド・アンデルセンの話

 だが、ボスニアを拠点としていたAFPの同僚たちにとって、スレブレニツァからのニュースはまったく終わっていなかった。

「スレブレニツァは、あの紛争の間、一度も行けなかった場所だ」と同僚のカメラマン、オッド・アンデルセン(Odd Andersen)は振り返っている。彼は1992年から95年のボスニア紛争中、現在のボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボ(Sarajevo)を拠点としていた。

「勇気ある同僚が何人かあの街へ入り、彼らが取材した記事や写真はいつも、入れなかった私たちの羨望の的だった」

「1995年7月にあの街が侵略されたとき、私はノルウェーの首都オスロ (Oslo)にいて急いでボスニアへ戻った。空路でスプリトまで、そこから車でトゥズラに入ると、避難民の流入が始まっていた。トゥズラ自体もセルビア人勢力から砲撃されていたので、ほとんどの避難民は空港に身を寄せていた」

「1、2日で空港の滑走路は広大な避難民キャンプと化し、ゲートの中に入れた人、それからフェンスの外で滞在しようと決めたさらに多くの人たちに、国連軍のスウェーデン兵士が水などの物資を供給していた。重症のけがをしている人は、トゥズラでノルウェーの医療チームが運営する国連の野外病院で手当てを受けた」

「私は1995年11月に(サラエボから)トゥズラへ移り、AFPの支局を立ち上げた。デイトン合意(Dayton Peace Accords)の下で米軍が主導する北大西洋条約機構(NATO)軍の到着を待った。NATO軍がやって来て何か月も経たないうちに、生存者たちによる抗議の最中、オランダ・ハーグ(Hague)の国際戦犯法廷による捜査が始動した」

「私は1996年の夏すべてを、それまでの3年間、セルビア人勢力がメディアの立ち入りを拒んできた場所を回ることに費やした。1年前に生存者たちが語っていたおぞましい話の証拠をようやく、自分の目で見ることができた」

「私たちは国際戦犯法廷の調査団と数か月、行動を共にした。大量の遺体の埋葬地を彼らが掘り起こしたときも一緒だった」

「1996年の終わりにボスニア東部を永遠に後にしたとき、そのときに持っていた服も靴もすべて焼いたが、人間の遺体の断片が散らかった丘や吹きさらしの埋葬地の臭いは今も鮮明に覚えている」(c)AFP/Nadège Puljak

この記事は、2015年7月11日に英語で配信された、AFP通信パリ本部の記者ナフェージュ・プリャックのコラムと、AFPベルリン支局のカメラマン、オッド・アンデルセンの談話を翻訳したものです。