【7月2日 AFP】人身売買組織によって海に放り出された何百人もの難民を取材するため、インドネシア北部アチェ(Aceh)州に滞在し始めて5日が経った5月20日の明け方、難民約400人がインドネシアの漁師に救出されたと聞いた。


 ミャンマーのイスラム系少数民族ロヒンギャ人とバングラデシュからの難民を受け入れる国が現れない中、インドネシアの漁師たちが救いの手を差し伸べたのだった。彼ら難民を乗せた船がアチェに到着するのは、これで3度目だった。

インドネシア・アチェ州沖で、ミャンマーのロヒンギャ人難民とバングラデシュ難民の救出を手伝った後、空になったボートを見つめる漁師(2015年5月20日撮影)。(c)AFP/Romeo Gacad


 救出を手伝っていた漁師たちの助けで、私たちは約30分かけて漂流している船にたどり着くことができた。私はすぐに、その船が、同僚のクリストフ・アルシャンボー(Christophe Archambault)が5月14日にタイ沖で撮影していた緑のボートだと分かった。そしてインドネシアの首都ジャカルタ(Jakarta)にいるニュースデスクにすぐさま状況を伝えた。

■深刻な栄養失調

 AFPは、マラッカ海峡に面したアチェ東岸沖の浅瀬に漂着していたボートに乗り込んだ最初のメディアだった。ボートは損傷していないようだったが、船倉から甲板に至るまで、ごみが散乱していた。タイやマレーシアから流れてきた服、食べ物の空き袋や空きボトルなどだ。船長室には食べ終わった皿が、ルーフデッキの上にはずた袋に半分入った乾燥とうがらしがあった。

インドネシア・アチェ州Bayeun村にあるキャンプで散髪してもらうミャンマーから来たロヒンギャ人難民たち。沖合で救出された400人の難民グループの一部(2015年5月22日撮影)。(c)AFP/Romeo Gacad

 私はそれまで、生き残った難民たちの健康状態のひどさを伝えることに多くの時間を費やしていた。そして新しく到着した難民たちも皆、ひどい旅の末に衰弱していた。ほとんどが深刻な栄養失調や脱水症状に陥っており、なかには歩くことさえできない人もいた。ボランティア、地元支援グループ、政府の救助隊、社会福祉当局、国際移住機関(International Organisation for MigrationIOM)や国連難民高等弁務官事務所(UN Refugee AgencyUNHCR)の職員などが、最小限の設備しかない環境で彼らの世話をした。地元住民は衣類や食べ物などを寄付しに来た。

インドネシア・アチェ州Bayeun村にあるキャンプで、警察の身元確認手続きの一環として写真を撮られるミャンマーのロヒンギャ人難民の男の子。(c)AFP/Romeo Gacad

 警察が新たに到着した難民の身元確認の最初のステップとして顔写真を撮り始めると、私は強く興味をひかれた。難民たちは移民局に登録された後、目盛りがついた白い板の前に立たされた。手には、自分の名前、年齢、職業、出身地が書かれたボードを持っている。

 私は彼らの写真を警察と同じ形式で撮り始めた。ポートレートのシリーズとしてまとめれば、ロヒンギャ人の迫害や、人身売買組織の犠牲となったひどい話について伝えられると思ったからだ。

インドネシア・アチェ州Bayeun村にあるキャンプで、警察の身元確認手続きの一環として写真を撮られるミャンマーのロヒンギャ人難民の女性たち。(c)AFP/Romeo Gacad

 こうした顔写真は、逮捕されたときによく撮影されるもので、立派なポートレートとは言えない。だが不思議なことに、私は名前を掲げた彼らの写真を撮りながら、自己紹介されているような気分になった。ミャンマーからのロヒンギャ人とバングラデシュの難民、合わせて86人の顔写真を私は撮影した。

■どうやって顔と名前を一致させるか

 緑のボートで新たにやって来た難民は、アチェのBayeun村にあるキャンプに、以前からいる難民とは別に収容された。その頃までには、私はクリストフの写真に写っていた「名もなき難民たち」の何人かを、容姿や服装から見つけ出していた。

(左から)ロヒンギャ人のムハマド・アヤスさん(13)、アブドゥル・ラシドさん(37)、バングラデシュ人のザンギさん(19)。上はタイ沖で漂流しているところ(2015年5月14日撮影)、下はインドネシアのキャンプで(2015年5月28日撮影)。(c)AFP/Christophe Archambault/Chaideer Mahyuddin

 次は、彼らより先に到着していた難民たちの写真から、彼らの家族を見つける必要があった。ロヒンギャ人は英語が話せず、言葉の壁は高かったが、バングラデシュ難民の中には話せる人たちもいて助けてくれた。国際移住機関の職員も親切に通訳してくれた。

■同じ服装

 翌21日、ロヒンギャの女性が痛みを訴えて意識もうろうとしながら、医療テントに担ぎ込まれた。インドネシア人医師は栄養失調と脱水症、下痢だと診断し、すぐに点滴を始めた。彼女の子どもはそばに座って母親の服をつかみ、痛みに苦しむ母を見てずっと泣いていた。私は写真を撮りながら涙せずにはいられなかった。

インドネシア・アチェ州Bayeun村にあるキャンプで、栄養失調で治療を受けるロヒンギャ人女性のアンビハツ・ハキムさん(21)の橫で泣きじゃくる4歳の息子のアブドゥルくん(2015年5月21日撮影)。(c)AFP/Romeo Gacad

 ホテルに戻り、その日取材したものを支局に送った。その時、クリストフの写真の中に、私がさっき撮影してきた女性がいるのを見つけた。彼女は同じ服を着て、ボートの脇で泣き叫んでいた。海での試練を生き延び、そして医師に命を救われた彼女。それは忘れられない写真の1枚になった。

ロヒンギャ人難民の(左から)サヌアルベゴさん(18)、アンビハツさん(21)、フスマハツンさん(21)。上はタイ沖で漂流するボートの上で(2015年5月14日撮影)、下はインドネシアのキャンプで(2015年5月28日撮影)。(c)AFP/Christophe Archambault/Chaideer Mahyuddin

 400人近くの難民の身元確認が終わった頃には、私は体力的にも精神的にも疲れ果てていた。毎晩、写真を送り、また新しい難民船が見つかっていないか、夜遅くまで起きて情報収集にあたっていたからだ。そのように張り詰めた8日間の取材が終わったとき、私は帰ろうと思った。ただし、ポートレートのシリーズを続けるためにまた戻ってこようと思いながら。

■続きを託す

 しかし、ちょうど私が引き揚げようとしていたとき、AFPの契約カメラマンで、アチェに漂着した最初の難民たちの写真を撮っていたチャイディール・マフユディン(Chaideer Mahyuddin)が、また戻ってくることを知った。空港まで車で向かう4時間の間に、私は彼と電話で話し、仕事の続きを託した。

ミャンマーから来たロヒンギャ人難民の(左から)ムハンマド・ルバイルさん(14)、ハシクさん(20)、ナジブル・ハサンさん(15)、ユスフさん(22)。上はタイ沖で漂流しているところ(2015年5月14日撮影)、下はインドネシアのキャンプで(2015年5月28日撮影)。(c)AFP/Christophe Archambault/Chaideer Mahyuddin

 私たちは、窮地にある難民たちの劇的なポートレートをいくつか選んだ。苦悩に満ちた表情で食べ物を求め、泣いて助けを求め、タイ軍のヘリコプターが海上に投下した物資に群がる難民たちの写真だ。

 チャイディールの仕事は、これらの写真に写っている人たちの名前、年齢、国籍、ミャンマーあるいはバングラデシュにいる親類たちの電話番号を調べることだ。そうすれば、今後何か月、何年後の彼らの進展を追いかけることができる。

 私はチャイディールに、クリストフの写真と同じような構図でポートレートを撮ることを助言した。Bayeunキャンプでの彼らの新しい始まり、新しい表情は、漂流中の絶望的な表情と強い対比をなす。そこに見えるのは、「生きたい」と願う彼らの意志を示す強力な証しだ。

インドネシア・アチェ州のキャンプで、タイ沖で漂流しているところを撮影したAFPの写真を見る難民たち。(c)AFP/Chaideer Mahyuddin

ここまでは、AFP通信インドネシア・ジャカルタ支局のチーフ写真記者ロミオ・ギャカド(Romeo Gacad)が書いたコラムを翻訳したものです。

 5月20日にアチェ東部で立ち往生していた難民の写真を初めてみたとき、クリストフが撮影した素晴らしい写真に写る、タイ南部のリペ島(Koh Lipe)沖で捕まった緑のボートとの類似性に驚いた。詳しく調べてみて、ボートに乗っていた人たちと同じだと確信した。

 すぐに私は2人の男性を認識することができた。バングラデシュからのムハマド・エフサンさんとミャンマーからのハミド・フセンさんだ。ボートにくっついて、海の中から拾った食べ物を食べていた2人だ。私はロミーに知らせ、それが最初の組み合わせ写真になった。

(左から)ロヒンギャ人難民のハミド・フセンさんとバングラデシュ難民のムハンマド・エフサンさん。上はタイの洋上で投下された食糧を食べているところ(2015年5月14日撮影)、下はインドネシアのキャンプで(2015年5月23日撮影)。(c)AFP/Christophe Archambault/Chaideer Mahyuddin

 私は難民のキャンプ地でクリストフの写真を見せてまわることにより、彼の被写体となっていた人たちの多くを見つけることができた。だがこうしたグループ写真を撮るのは容易ではなかった。皆別々の場所に散り散りになっていたからだ。3人集めて4人目を探しに行き、戻ってきたら1人がいなくなっていて、また最初からやり直し、といった具合だ。加えて、言葉の壁もあり、本当に難しい仕事だった。それぞれのグループを集めるのに2日を要した。

■家族に無事を知らせる

 私が話した人々は、自分たちが絶望的になっていたときの写真を見て、相当なショックを受けていた。そしてもう一度写真を撮られるときは、みんな幸せそうに見えた。その写真がバングラデシュやミャンマーにいる家族たちに、自分たちの生存を知らせるものになるかもしれないからだ。

インドネシア・アチェ州のキャンプで、タイ沖で漂流しているところを撮影したAFPの写真を見る難民たち。(c)AFP/Chaideer Mahyuddin

 彼らは、十分な食べ物も水もない中漂流した3か月間の苦闘について私に語った。生存者たちによれば、その漂流で約100人が命を落とした。多くの人が空腹に耐えられなくなり、海に飛び込みたい衝動に駆られたという。

 今後について、バングラデシュ人たちは母国に戻るか、インドネシアで職を見つけることを望んでいると語った。だが国籍のないロヒンギャ人たちは、インドネシア政府が約束した1年間の滞在期間が終わったら、第三国に受け入れられることを望んでいた。

ロヒンギャ人難民の(左から)ルブザ・ハツさん(21)、レハナ・ベゴムさん(24)、ロザマ・ハツさん(23)。上はタイ沖で漂流しているところ(2015年5月14日撮影)、下はインドネシアのキャンプで(2015年5月28日撮影)。(c)AFP/Christophe Archambault/Chaideer Mahyuddin

ここまでは、AFP通信契約カメラマン(インドネシア・アチェ州)チャイディール・マフユディンが書いたコラムを翻訳したものです。

 アチェからの写真を見たときは衝撃的だった。「私たちの」緑のボートが5月20日にアチェ沿岸に到達したことを聞いたとき、安堵以上のものを感じだ。その日、私は荷造りをして、タイ南部からバンコクへ戻った。アチェの漁師に助けられ、難民キャンプに連れて行かれた彼らには、次に何が待っているのだろうと考えながら飛行機に乗った。

 同僚のチャイディールが撮影した素晴らしいポートレート写真には、彼らの安心した気持ち以上に、人間としての尊厳を取り戻したような表情が見てとれた。きれいな服に着替え、伸び放題だった髪の毛をそった男性たち、ヘッドスカーフをきちんと巻き直した女性たち。彼らが人生を取り戻した表情をしているのが感じられた。

ロヒンギャ人難民の(左から)サナミアさん(42)、ズバイダちゃん(9)、アンワル・ウソンくん(8)。上はタイ沖で漂流しているところ(2015年5月14日撮影)、下はインドネシアのキャンプで(2015年5月28日撮影)。(c)AFP/Christophe Archambault/Chaideer Mahyuddin

 もちろん「普通の生活」に戻るには、まだ長い道のりが待っている。だが海で餓死したり水死したりするのではないかという切迫した危機は越えた。彼らは自分たちの足で立っている。泣いてもいない。何とかして、彼らはやってのけたのだ。

ロヒンギャ人難民のユスフさん(22)。上はタイ沖で漂流しているところ(2015年5月14日撮影)、下はインドネシアのキャンプで(2015年5月28日撮影)。(c)AFP/Christophe Archambault/Chaideer Mahyuddin

 私はちょうど、インド洋の難民危機対策についてバンコクで開催された地域会合の取材をしてきたところだ。ロヒンギャ人が集団でミャンマーから脱出する根本的な原因に対処するまでには時間がかかるだろう。

 それでも明るい話をするならば、同僚のロミオが、私が撮影した漂流中の難民たちを追跡するという素晴らしいアイデアを出してくれたことには驚いた。さらにチャイディールがそのアイデアを具現化して、難民たちに同じようなポーズをとってもらったことにも度肝を抜かれた。それは、素晴らしく感動的な写真だ。(c)AFP/Romeo Gacad, Chaideer Mahyuddin and Christophe Archambault

ここまでは、 AFP通信タイ・バンコク支局のチーフ写真記者クリストフ・アルシャンボーが書いたコラムを翻訳したものです。

インドネシア・アチェ州Bayeun村にあるキャンプで体を洗う難民たち。救出された400人の難民グループの一部(2015年5月22日撮影)。(c)AFP/Romeo Gacad