■初めて登場したのはフランス革命

 シャルリー・エブドは、反植民地主義や反教権主義、反体制順応主義、反軍国主義が拡大した20世紀初頭に創刊された、風刺的で無政府主義の週刊誌「ラシエット・オ・ブール(L'Assiette au beurre)」の精神を引き継いだ。ラシエット・オ・ブールは、力強い散文と、強烈な筆遣いを混ぜ合わせて、「当時の独裁政治とあらゆる形の権力と対決した」とデルポルテ氏は述べた。

 だが、激しい言葉と絵は、左翼風刺作家だけの専売特許ではない。

 陸軍大尉のユダヤ人が軍事機密をドイツに漏らしたとして誤って有罪とされ、のちに容疑が晴れた1894年から1906年のドレフュス(Dreyfus)事件の間と、その後の両大戦間の時代には、右翼および極右の挿絵画家は「あらゆる点において残忍で才能に恵まれていた」とドイジー氏は語った。

 報道における風刺画にはすでにこの当時100年の歴史があった。こうした風刺画が初めて登場したのはフランス革命のさなかだった。フランス国王ルイ16世(King Louis XVI)と王妃、マリー・アントワネット(Marie Antoinette)は風刺画家のお好みの標的で、国王はブタ、王妃はヘビとして描かれていた。聖職者もまた連載画でさらし者にされていた。

 だが報道における風刺画が真に本格的になったのは19世紀で、ナポレオン3世(Napoleon III)(ナポレオン1世の甥)の第2帝国下の時代に絶頂期を迎えた。この時にはカトリック教会とバチカン(Vatican)が風刺画家の主要な標的であり、聖職者はみっともない姿に描かれることが多かった。

 シャルリー・エブドも過去30年間、あらゆる宗教をわけ隔てなくその対象としてきた。(c)AFP/Franck IOVENE, Myriam CHAPLAIN RIOU